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第六章 フランク・ロイド・ライトの建築 体系
「たとえラジカルであったとしても、ここに示された作品は、言葉の最良の意味で保守的な動機に捧げられたのである。あらゆる偉大な建築に受け継がれてきた基本的な法則や秩序づけを否定しようというのではなく、むしろ、そうした法則や秩序づけの精神への愛情を明らかにすることであり、古代の表現をその時代において息吹きある美しいものとしていた要素への崇敬の念を込めた認識なのである。(F・ロイド・ライト、1908年) ヲある時代の基本的な前提を根底から再構成したために、特に個人として考慮するに値する芸術家がしばしば現れる。こうした個人たちの創造をしるしづけるのは並外れた一貫性と統合性であって、それらは、理想を抱く世界観に厚みある表現を与えられるほどの能力と手法の巧みさとの双方にたどりつく。その芸術家たちの作品に具現される解法は、それぞれ特有の状況をはるかに越えて関連した問題をも解決するように思われる。彼らが意図しようとしまいと、こうした天賦の指導力ある芸術家は新しい伝統の創始者となるのだ。近代建築が形成されゆく上には、はっきりとこの創造力と知的な才幹のある二人の人物が立っている。ル・コルビュジェとフランク・ロイド・ライトである。 ライトについての相反する観点 観点@:折衷主義と決別し、相貫する平面と抽象マッスという空間概念に基づいた新しいスタイルを見い出した最初の建築家の一人。そしてそのスタイルが、特にオランダでの展開への影響を通してインターナショナル・スタイルを巻き起こした。→この観点では、建築への機械生産の適応に関するライトの意見の書き散しが、彼の「前向き」の立場の証拠として取り上げられる。 観点A:アメリカ社会に根差した地域主義的性格、アーツ・アンド・クラフツの信奉者。ライトは、個人主義的ながらも民主的であった開拓期のアメリカという価値を、機械化の猛襲から守ろうとする伝統主義者。 メ どちらの観点にも真実がある。一人の芸術家の作品思想について、一つの展望の中にも両極性があり得る。 1867年:ライト誕生 ライトははじめ、郊外住宅デザイナーの下で働き、居住デザインの基本作業について学び、当時普及していた郊外建築スタイルに熱中。 1887年:ルイ・サリヴァンの下で働くために転職。 サリヴァンは当時、有機的建築、特にスカイスクレーパーのための形態と原理を展開するのに忙殺されていた。彼は理想主義者であり、アメリカ中西部の建築家こそ、異国からの輸入形態に振り回されず、しかしながら古代からの建築法則を礎として文明像を形造れると信じていた。彼の著作や建築形態、装飾デザインにおける有機的類推の頻繁な使用は、自然秩序の内に社会と建築のルーツがあるという信念を外に表したものである。理想に基づく抽象化という才覚によって芸術家は、自分の属する社会を表面下に掘り下げて、人間構成という内的な意味を見、そしてそれらに見合った形態を与えるのだ。彼は建築家には民主主義の「本当の」形態を予言する天分が授けられている、と信じていた。 ↓ ライトはこのほとんどを吸収、更には、個別家族住居という領域の内で彼自身の道程をたどりながら洗練させていく。 事務所ですぐにかなりの責任を与えられるのだが、五年程たったところで独立し、事務所をシカゴ郊外の自宅近くに開く。 1889年:自邸設計 ポーチや軒の出た屋根といった要素は、シカゴ郊外に土着のもの、気候の変化に対処し、家と庭を繋ぐ賢明な手法。焦点としての暖炉周りもまた、アメリカ家庭の伝統的な特色だが、彼は次第ににそれに自分自身の意味を染込ませていく。下層の空間が互いに流動し合っているのは、この手のデザインの通例のもの以上であり、形態全体として、中心角をめぐる感覚を起こすような軸線によって巧みに統制されている。 1893年:ウィンズロー邸−ライト大躍進となる建物。 完全左右対称の玄関まわり、二階は黒っぽくテラコッタを塗り上げ、一階の明るく塗られたレンガとの対比によって引っ込んで見える。この構成にかぶさる第三の要素が、やはり強く水平線を強調した屋根である。形式を重んじていることは一目瞭然である。ディテールはきびきびと、線は鋭く、結節がはっきり表現されている。フォルムは謹厳で堂々としているが、決して生きが悪くはない。 正面からは、住宅中心線の上に煙突が見え、屋内へ入ると、一種の内陣仕切りのようなものの後ろに奥まった暖炉と顔を突き合わせる。炉辺は高潔な道徳的家庭の紋章というイメージである。この炉辺は住居の中心に立ち、応接空間を抜け後ろへ走る主軸上に配された食堂で頂点となる、連続循環へと訪問者を導き、そして外見上は、こぶのようなボリュームとして表現されている。 背面には正面程の一貫性はなく、非対称に表現され、むしろ形態群の百花繚乱である。 食堂(最もフォーマル)を下に置き、その上に主寝室を同じ軸線上に配する、というのはライトの平面計画アプローチの定石である。 ↓ ・格式とその崩しとの協調 ・ライトは住宅を、ほとんど神聖なるものとして扱い、高貴で格式ある建築処理を求めていたと思われる。 ヲウィンズロー邸をこうまで卓越させているのは、 諸影響を結び付けながらもそれらを越えることで、ライト自身の様式の構成要素であることを暗示している、その手法である。軸線コントロールを求めて古典伝統を取り込み、巡るプランのためにシングル・スタイルを取り込んでいる。サリヴァンの自然抽象化は再解釈され、建物は基盤と胴部、頭部を持つべきというこの師匠の主張も同様に扱われた。ところがライトの形態は、受け継いだ枠を越えて、自然における秩序の本能的感覚にまで探りを入れている。そのことを上手く噛み砕いたコメントがある。 「かつてなく幅広く、この上なく満ち足りたことを彼はなした。選ばれた地には、自然が幾歳月にわたって仕事をし、すばらしいニレの樹を建ててきた。そして、この家の性格は、この樹の性格にいくらか左右されたのだ。この両者の間に培われてきた共感が、培われたものにもそうでないものにも感じられるー外観からもたらされる印象はニレからもたらされる印象だー有機的な自然の確とした簡潔な力が、この樹と同じぐらいに、その場に似合っているし、この敷地の一部となっている。そこに類推は始まり、続いていく。この住宅全体とその環境との関係と同じく、住宅の細部がそれぞれの位置を占め、それら自体で一貫し、互いに連係しているからだ。この建築家は、自然への己が共感を示しているのだ。」 樹という暗喩はライトの思想の中心的な一つになってゆくものであり、そこには秩序があり、根づいていながらも成長と変化の余地がある、という意味が含まれる。 根、幹、枝という三部体系は、次々とライトの形態アレンジに染込んでゆく。ウィンズロー亭における基壇、中間部、かぶさる屋根という三分性は、前例ない明解さで描き出されていた。 ヲこの後のライトに、十五年に百を越す注文をもたらしたものは何だったのか 当時のシカゴ:急速な発展が進行。中流階級に絶好の、ただし概して保守的な価値観を持つコミュニティを形成。 ライトの施主の多くは独力独行で叩き上げた人々であり(ライト曰く「タフな直感力と堕ちることのない理想」を持っている)、外向きには保守的ではあるが、傾向として芸術や技術への関心を持つ方であり、そのことから、住居の建築課題への新しく本質に関わる解法を受け入れやすかった。 平面計画は理路整然として、施主の要望に上手く合うようになっていて、敷地に相応しいものとなっていた。 かなりの注意を払って給油システムが設計され、当時まだ開発途上にあった空調機器も時々組み込まれていた。 ライトは建設作業を間近に見守ることを好み、自分のデザインのごく細部までも監督することを望んでいた。 メ とは言え、これらの単なる現実的考慮よりも深く訴えかけるものがある。 豊富な水平線、上品に均整のとれたディテール、作り付けの家具、軒の張り出し、その空間の持つ質、そしてどこまでもうつろい行くような雰囲気、そういったものによって、ライトの意匠は、冷静さ、幻想性、そして規模による堂々とした資質を手にしていた。 中心には薄いローマレンガで仕上げられた横幅のある暖炉が、大平原という床に直に敷かれた丸太の上に置かれ、また夏には、植物を抽象化した模様のステンドグラス窓によって、うつりゆく光が室内をまだらに染める。 ライト風のプレイリ−・ハウスは、新郊外ブルジョアの熱望やディナー・パーティーといった慣習に応えるものであったが、同時に、アメリカ家庭の伝統イメージをも展開した。ある意味で、この住宅は、自分らのアイデンティティを探し求めていた新興階級を助けたのである。 ○ウィンズロー邸から続く道は、ほぼ十年かけて「プレイリ−・ハウス」へと花開くのだが、それは果てしない実験のプロセスであり、新しい苦役の都度、原則を推敲し、そして進展をなし得たのである。 ライトの居住観念には明らかに、アーツ・アンド・クラフツ価値観の足跡が残されていた。それも、抑制のきいた簡素性、素材をありのままに素直に用いること、建物の自然との統合、建具や備品の統一、高められた道徳理想の表現、それらを鼓舞する価値観であった。 ↓ しかし彼は、こうした前提を根本から再解釈する途についた ↑ 機械化に対する関心 ヲ機械をその機械への類推やイメージによって直接に賞賛すべきだということではなく、新しい生活パターンへの人間味ある高揚した環境を生み出すという、より大きな目標への手段として、工業化を理解すべき。 ○日本の影響 日本建築がライトの成熟を助けた。 日本建築の洗練されたプロポーション、精巧な大工仕事、素材の簡素な使用法、自然への絶妙な溶け込みにライトは感服していた。 日本建築こそ、空間をモデュールで測り取り、そして精神的内容に身を委ねている建築であった。彼の胸中では、部屋をぐるりと壁で取り囲んで閉ざしてしまい、装飾で飾りたてるルネサンス流儀と対極にあったのである。 ライトが追求していたのは、外部からも内部空間がわかるような、そして人間的なスケール感があらゆる部分にまで行き渡っているような、総合的な三次元表現であった。 日本の版画−感覚の琴線を直接かき鳴らす色と線の語り口を呈す ↓ ライトにとってこれは、抽象の追加講習でった。彼はそれらから、「さらに高次の」精神的価値を直感で理解する洞察力を身に付けた。 ↓ 版画は更に、どんなケースにもあるそれぞれの状況の上に位置する理想タイプ(例外なく適用できる程幅広い形式化)といったものに取り組み形成する意欲を掻き立てさせた。 ↓ それが身を結ぶ鍵となった段階は、1901年頃『レディス・ホ−ム・ジャ−ナル』誌に「大平原の家」という自分の考えを発表した時期であろう。 平らな敷地と長く低く平行に伸びる水平線。 伸び広がる屋根は周辺環境へと伸び、ポーチや車寄せと主屋部を、生き生きと対称を崩しながら統一するように導く。 窓は単なるスクリーンへと還元され、一方、固定壁はほとんどない。そして、屋内の各空間は互いに繋がっている。 家具はあらかた作り付けで、室内の性格づけは広々としていてエレガント。中心には炉辺、そしてこの家の諸々さまざまな空間の全ては、この救心要素へのつながりに応じて配されている。 依然、軸線コントロールとヒエラルキーはあるが、巡回性と非対称性とが、緊迫したリズムによって息吹を与えられ、行き違い重なりあう板の建築の中で結び付けられている。 ヲウォ−ド・ウィリッツ邸(1902)−ライトの造型成熟期を示す最初の作品 建物は四つの主ウィングに解体され、その結果スケール感は決して圧倒するようなものではない。 導入は、建物の正面から向かって右側の車寄せから数段上がって行く。これまでのライトの住宅には大抵、その中を通る「道」があったが、ウィリッツ邸では、簡単な分かれ道があり、回れ右してぐるりと階段を上がって寝室階へ上がるか、居間を斜に見通す視線に従って、玄関ホールから出て行く一番の大道を進むか、選択できる。 居間は主軸上に置かれ、半階高くなっている。この軸上に暖炉を配し、また縦長なスクリーン状の窓を巡らせている。この空間から斜め方向に目を転じれば、食堂が交差軸上に位置し、その三方に庭を眺めるようになっている。 構造体や調度品、ディテールに主プロポーションへの関連性を持たせている。 暖炉のレンガ材、格子、窓の縦棧、ガラスの枠といった細部は、全体を考え出したのと同じ形態理解の刻印を見せ、まるで微少な部分もすべてそれぞれの中に、暗黙の内にこの形成理念を身に付けているかのようである。プランの抽象的な形や窓の装飾は同一の幾何学パターンの変奏として感じ取れるのだ。 平面プランはそれ自体でほとんど芸術作品であり、ライトの構成原理を指し示している。主軸線と交差軸線とは屋根中央の稜線と煙突配置によってさらに強められてはいるが、部屋の多くは、主たるに軸線と平行な副次軸線へとずらされている。その結果は一種の「風車」的循環であって屋内諸空間を動くにつれ、うつろい行く空間の緊張を三次元に渡って覚える。 各細部も全体も、同じく活気あるよう考慮されているのだ。それゆえ彼の住宅は、空間音楽といった資質を纏っている。この音楽のリズム、動き、リフレイン、或いは類似要素の変奏ぶりが、様々なテンポや強弱といった情感と雰囲気を醸し出しているのだ。 ヲライト自身による住宅デザインの指針原理 一、 住宅に必要とされていた部分の数を少なくし、切り離された部屋の数を最小限とすること。そして、空間を分けながらも全体で一つの閉じた空間とし、光や空気、景色を、統一感と共に徹底させた。 二、 大地に水平な平面を延ばし、これを強調することで建物全体をその敷地と協調させること。しかし敷地の最良の場所には建てず、住宅の生活と結び付けて使える、より良い場所とした。この結び付きには水平に伸ばした平面が良い。 三、 箱のような部屋、そして全ての壁を囲い込む膜としている住宅を排除すること。天井と床、取り巻くスクリーンはお互いに流れあって、一つの大きな空間の囲みになり、その内には単なる間仕切りしかない。住宅の全てのプロポーションをより自由に人間らしいものとし、構造上無駄な空間を減らし、そして構造をもっと素材に適したものにすることで、全体をずっと活き活きとしたものにした。自由、というのがぴったりな言葉だ。直線の進展と流線形がこれには有用である。 四、 不健全な地下室を全て地上へ放り出すこと。住宅という生活の場のための低い基壇として、住宅がその上に立つ低い堅固な台座として、基礎自体を目に見えるように。 五、 「外」への、あるいは「内」への必要な開口全てを、良き人間的なプロポーションと調和させ、それらがごく自然に存在するようにすること。建物の全体テーマにおいて一連となるのでも、バラバラでも。ふつう、これらは壁に代わる「光るスクリーン」として存在する。なぜなら、全ての住宅「建築」とは、こうした開口を、部屋部屋をまとめると同時に、それらを囲むスクリーンとしての壁面と化す術なのだ。このような部屋こそ、必須の建築表現であったし、箱に穴を開けるように壁に穴を開けるわけには行かなかった。というのも、これは「型取り自在」という理想とあいそぐわなかったからである。穴を開けるということは暴力であった。 六、 いくつもいくつも違う素材を組み合わせることをやめ、可能な限り単一素材を用いること。素材の性質から来たのではない装飾を使わずに、建物全体を人間が住む場所としてより明らかにし、そしてより表現豊かにし、さらに、適当に強調を示す建物という概念を与える。幾何学に則ったライン、或いは直線は、当時建設業会で使われていた機械に適したもので、したがって、室内も当然この性質を用いた。 七、 暖房、照明、配管といったものを全て組み込んで、こうしたシステムを建物自体の構成要素とした。こうしたサービス機器は建築の一部となり、この試みによって有機的建築という理想が動き出したのだ。 八、 室内装備を建物それ自体と一体化し、それらの備品を機械仕事で製作しやすいようデザインし、これによって室内装備をできる限り、有機的建築の一部としてまとめあげる。やはり、直線と四角い形態。 九、 装飾屋を追い出すこと。時代のものでなければ、単なる曲線、単なる徒花であった。 ※ライトのシステムは融通のきかない規則のようなものではなく、実験のための確固たる足場を与えるものである。 ・マ−チン邸(1904年) |
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