W.カーティス著、沢村明他訳
「近代建築の系譜−1900年以降 上巻」、鹿島出版会、1990年
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第九章
第九章 ヴァルタ−・グロピウス、ドイツ表現主義、バウハウス

「新しい時代はそれ自身の表現を求めている。あらゆる偶然を避けて正確にかたどられた形態明確な対照性秩序づけられた部分相似た部分の連続的は位置形態と色彩の統一。」(W・グロピウス、1913年)

1918年:ドイツ軍の敗北と旧帝国体制の崩壊。
芸術家テクノクラートのよって導かれるべき、統一された国家的「文化」というムテージウスの夢は打ち砕かれた。ドイツでは経済の混乱に対する反動で革命が起こり、それと共に政治的には左右両極化。芸術においては夢想家達のグループが、急進的労働者の集団にならって宣言をつくり、政治革命が、文化革命をも引き起こすことを願っていた。
今日の芸術家は、指針もなく壊滅的な時代に生きている。芸術家は孤立しているのだ。旧弊な体制は崩れさり、凍えかけていた世界は揺り起こされ、昔の人間精神は役に立たなくなり、新しい形態へと変化している。我々は空間に漂い、新しい秩序を知覚できないでいる。」(W・グロピウス、1919年)

内に潜む不安で染められた
ユートピア思想発展の基盤
(厳しい経済不況が実際の建設の可能性を縮小し、この雰囲気を増長)

ブル−ノ・タウト
『アルプス建築』:細かいガラスの結晶から成る集合的建築の水彩画。人類同胞にとっての理想王国である「非政治的社会主義」の具現。
『都市の冠』:宇宙的世界山脈もしくは階段状のピラミッドという形をした象徴的中心を持つ都市計画における新しい共同体の宗教を具現化しようとする。
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この「中心」は、疎外された近代人の中心喪失のためにつくられ、統合された社会において近代人を「もっと深遠な」意味に定着させるものと想定されていた。
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形態そのものが救済能力を持つべきだ、と信じる当時一般的であった傾向。
←1919年「アルプス建築」
バウハウス

芸術工芸学校(ヴァン・デ・ヴェルデ設立)と古い美術アカデミーの合併により成立。
芸術と手工芸の融合を通してドイツの視覚文化を再生するというグロピウスの最終的な目標に向けての第一歩。
最初の宣言は、
社会と精神の新たな統合という理想に貫かれている。そこではいわば共同体の象徴と成るような未来の建物をつくるため、芸術家と職人が力を合わせるはずであった。

「完璧な建物が視覚芸術の究極的目的である。建築家、画家、彫刻家はもう一度、複合体としての建物の本質を認識しなければならない。そのときはじめて、かれらの作品にはサロン芸術において失われてしまった、あの構築的感覚が充満するであろう。
手仕事の規律という基礎的な仕事が、どんな芸術家にも不可欠である。
芸術家と職人との間に傲慢な障壁を設けようとする階級的スノッブを排して、職人の新しいギルドをつくろうではないか。すべてのものを単一の統合的創造へと結び付ける未来の新建築を、ともに考え、つくりあげようではないか。無数の職人の手から天の高みへと上昇する建築、絵画、彫刻を、
未来の新しい信念の純なる象徴を。」

グロピウスの思想
中世の民衆の熱望を表現していたと思われるゴシック教会の手法への礼讃、及び、教会堂とは、「自意識過剰な設計者」抜きで、霊感を受けた職人集団によってつくり出されたものだという考え。
もし職人の集団が、近代という時代の要求と手段について学ぶことが出来たなら、彼らは協力しあって時代の正当で共通するイメージを生み出すはず。

バウハウスの学生たちは、ヨーロッパの「アカデミックな」伝統が持つ慣習や常套手段は「学ばず」、
自然の素材と抽象的な形態による実験を通じて、端緒を開くことを奨励された。生徒たちは、因習に「強要されて」いない形態を決定するのに、自身の奥底からの直感的表現を身につけることを期待された(純粋なものの典型としての原始主義)。精神の内的世界は、すべてその必然性において明らかにされるべきであり、材料の本質を捉え手作業するということは、集団に共通した最も奥深い信念をうつしだす真正な形態を生み出すものと考えられたのである。

1922年〜23年:バウハウス及びグロピウスの思想と設計とに新しい方向が現れる。
1922年:ドゥースブルフがワイマ−ルを訪れ、バウハウスに大きな衝撃を与える。
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以降、デ・スティル影響下の形態がデザインの一般的手法の基礎と成り、形態と工業の再統合がさらに強調された。直線構成による機械の抽象。

グロピウスは彼自身の「時代の様式」によって、新しい共同体芸術という夢を成就しようと努めたのだが、その様式は益々、球、長方形、正方形、三角形、四角錐という
基本的な形態へ戻りつつあるようだった。

1923年:バウハウス展に伴う巻頭言『理念と構造』
 「バウハウスは、
機械がデザインの近代的媒体であることを信じ、それに慣れることを求める。」
(学生は、一方で大量生産のための定型デザインを学び、又一方で、機械時代の諸価値が結晶化した形態のデザインに努める)
 以前と同様、最高の目的は芸術の総合作品、すなわち
建築におけるあらゆる芸術の統合と調和であった。それは、絵画、彫刻、建築の根本的な価値を、その時代を象徴するような感情構造へと統合するということである。

 グロピウスはこの建築における統合がどんな形をとるべきかを明らかにしてゆく。 
 「最近数世紀の建築は弱々しく、感傷的に、美的、装飾的になってしまっている。この種の建築を我々は否定する。我々はその
内的論理が光り輝き、赤裸々であって、欺瞞的な化粧面やごまかしに煩わされない、明解で有機的な建築をつくることを目的とする。我々は機械やラジオや高速自動車の現代世界に適合した建築を望んでいる。鋼鉄、コンクリート、ガラスといった新素材の堅固さが増すとともに、また工学技術の大胆な革新とともに、古臭い建築法の重々しさは、新しく空気のような軽やかさに道を譲りつつある。」(これは、未来派ドイツ工作連盟デ・スティルの思想の寄せ集めとも言える)

 グロピウスは大戦後、以前よりももっと神秘的な手法に向かい、平面計画においてはボザールの軸性という枠組みを拒否。代わってドゥースブルフリートフェルトに由来する空間概念を選択。
 「同時に、建物の諸部分の相称的関係と中心軸へ向かうその方位性は、このような類似部分の死せる相称性を非相称的であるが
リズミカルなバランスへと変える均衡という、新しい考え方によって置き換えられつつある。」


1925年:バウハウスはワイマールにおける非難の高まりを受け、ワイマールからデッサウに移動。
   メ
デッサウの新校舎の設計…模範となるべき近代建築をつくるチャンス。この建物ではすべての芸術が統合されるはずであり、学校の哲学が表現されるはずであった。

←V.グロピウス
バウハウス校舎
デッサウ、1926年
敷地は広々として開かれており、大規模であったため、全体の統一性を描くことなく、どの角度からも分かるような方法で主要なボリュームは分解された。グロピウスは分離した要素を異なる大きさの長方形のボリュームで表し、それらは回廊或いは小部屋の入った直方体で直接つながれている。次の段階の分節は窓面の構成によるもので、立体と平面、水平と垂直の強調をもたらしている。空間における三次元的緊張感をもつ高められた表現というバウハウスの実践は、さらになお実際性を考慮に入れなければならなかった。グロピウスは、空間の大きさ或いは小ささを強調し、機能に応じて様々な性質の光を導き入れるように、窓割りを変化させている
ガラスはときにファサードと面一に納められて、皮膚に覆われた空間という全体の立体的特質を補強し、又ときにはガラスは奥まったところにはめられて、柱に浮いた白い床面を強調している。こうした
ディテールの選択はすべて、デザインのもっと大きな動きと主題を明瞭にしている
この建物で際立っているのは、形態についての思想の正確さ、グロピウスの初期
理念と表現手法の融合である。戦前のファグス工場とドイツ工作連盟時代の経験、戦後の精神的理想主義とユートピア思想、抽象と機械を混合した表現の探究、これらすべてがここにありながら、ひとつの表明に統合されていた。その確実さには、展開して行く近代運動史のこの時期だと、シュレーダー邸あるいはクック邸のみが匹敵しうるものだった。

実際バウハウスという解答は、個人的な確信の表明以上のものだった。それは他の多くの建築家たちが採用し始めていた諸形態の成熟した体系における大きな一歩を記したのである。いうなれば、ゴシックやルネサンスの初期と同様に、
原点が次第に統一的な新しい表現体系へと統合されて行ったのである。つまりバウハウスでインターナショナル・スタイルは成人に達したのである。ここには、その時代に共有された価値の中から、自分自身の表現様式をつくりあげようとしている者すべてにとっての教訓があった。その完成後すぐに、このような建物が世界のあちこちで発表されるようになった。その空中写真の中には、要素主義者の巨大な彫刻かと見まごうものもあった。

「表現主義」
 「表現主義」という用語は、不正確な言葉である。普通はおおよそ1910年から1925年の間に、オランダとドイツで活躍していた大勢の芸術家を一括して表す。また、複雑でギザギザ或いは自在に流れるような形態の作品として表出。
芸術におけるいわば「非合理的」な傾向(これが議論を引き起こすのだが)を説明するのに使われている
しかし、その前提は単純になり過ぎるきらいがあり、そのため「合理的」傾向とは簡明さ、直線構成、静止というような「相対する」様式的特質によって表されることになってしまう。熱狂的で感情的で特異なものは、ある特定の様式で表されるに違いないのだと決めつけているために、また如何なる深みのものであれ、
芸術作品のほとんどは感情表現と形態の制御との間の緊張状態によって特徴づけられるのだということを無視しているために、混乱が生じているのである。

ここでは慎重を期し、オランダのデ・クレルクやクラメル、ドイツのタウト、ペルツィッヒ、バルトニング、メンデルゾーン、グロピウスが、それぞれの生涯のある時期につくった建築を通例「表現主義」と呼んでいる。

メンデルゾ−ン、ポツダムの観測所、「アインシュタイン塔」(1919年)
自由な形態をした曲面から成る彫刻。全体のダイナミズムを強調。
実際の平面は、
軸線の配置と機能のヒエラルキーが良く練られた例であり、材料は見かけ通りに「塑性のある」彫刻的な単一のものなどではなく、漆喰とセメントで表面を覆われた煉瓦である。明らかに、この塔の理念はアインシュタインの物質とエネルギーという主題と関連している。
「科学によって従来分離されていた二つの概念つまり物質とエネルギーが同じ基本的なものの異なった条件に過ぎないという認識、宇宙の中のなにものもコスモスに対して相対性を持たないものはなく、全体とのつながりを持たないものはないという認識、このような認識以来、技術者たちは死せる素材の理論を放棄し、自然に忠実に従っている。」

ミース・ファン・デル・ローエ
大戦終了から直線による抽象的なスタイルを持つ独創的な仕事が展開する1923年までの間に、「表現主義」的段階を通過した。

1921年:フリ−ドリヒ街摩天楼設計競技案−ガラスのスカイスクレーパー
骨組みを高く組み上げた建物を本質的構造にまで露にしてしまう試みとして、「合理主義的」用語によって解釈されがちだが、鋭い形、ロマンチックなシルエット、光の反射と透過性のある外壁との豊かな戯れは、オフィス・ビルどころかガラスの教会さえ思い起こさせる、ユートピア的情感を持っている(タウトのガラスのビジョンに通じている?)。
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ミ−スはこのテーマを更に発展させ、平面をコアから放射線状にのびる曲面形に変え、このガラスと透過性の実験について以下のように述べている。
「ちょっと見ると、プランの曲がりくねった輪郭は、勝手な線のように見える。けれども
この曲線は室内の十分な採光、街路から見た建物の組み合わせの効果、そして最後に反射の面白さ、という三つの条件から決定された。

1922年に計画したコンクリートのオフィスビルでは、少し雰囲気や形が変化している。
空間を水平に置くことと浮遊する板のような表現を強調。建物全体は柱からの持ち送りに支えられた片持ちスラブで形成。平面は構造柱のグリッドから成り、その間に間仕切りが挿入されている。
マ古典的アプローチ
 (対称性、中心軸の強調、最上部の「浮かぶ」ようなコーニスの水平板)
*このオフィスビルは、壮大なガラスの摩天楼よりは、その時代の技術で実現可能なものへ近づいている。
   メ
1923年:「G(ゲー)」グループを創立(ベルリン)
「形態至上主義」反対を宣言
・形態に関する理論的後ろ楯は、実用性と施工とに密接に関係。
「労働の、組織の、明解さの、経済の、建築である。
 明るく広々とした作業空間、妨げられない明瞭な空間。
 最小の手段による最大の効果。素材はコンクリート、鉄、ガラス。」
   メ
明らかにこの夢想家は、地に足をつけたといえる

1923年:煉瓦造田園住宅
     彼の根本と成る概念が最初に明らかにされたと思われる作品。
←ミ−ス・ファン・デル・ロ−エ
煉瓦造田園住宅案1923年
透視図及び平面図
平面は板が広げられたような壁から成り、その幾つかは周囲に伸びていっている。その間の空間は重なり合の原則によって、主軸に則ることなく規定されている。
彼の着想は、
装飾を剥ぎ取った古典主義の持つ価値、ライトの風車のような平面形の特色、そしてモンドリアンやファン・ドゥースブルフの抽象絵画との融合のように見える。ここでもやはり、絵画における抽象が建築へ実り豊かに転換されている

しかしこの場合、ボリュームは完全に大地に結び付けられている

このような
空間についての着想を三次元の建物として生き生きと表現する方法を、ミースが見い出すには更に数年がかかった。後の職歴を通じて、対照的で軸性を有し古典性を内に秘めた平面と、力動的回転と遠心的に広がる板に基づく平面配置との間を彼は絶えず揺れ動くことになる。

デッサウに移ったグロピウスは、建築における規格化という課題へいよいよ注意を向けるようになった。バウハウスに集合住宅研究が設けられ、それは、合理化された集合住宅のブロックは位置、空間、採光、換気、眺望への解放で最高点に達した。
 
1928年、グロピウスはベルリン郊外の社員住宅のためにジ−メンスに雇われる。
フランクフルトやシュトゥットガルトは、すでにブル−ノ・タウト(彼は表現主義の日々から正気に返っていた)やエルンスト・マイを大規模な低価格集合住宅設計のために雇っていた。
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開発された様々な標準モデル住宅は単純な箱のような形をしていた。
   ム
・「反ドイツ的感性」、「反自然」、「非人間的」、「機械的」、といった批判
・厳粛さと統御された繰り返しという意図された美的効果には、
退屈で生気ないものと誤解される危険が常にあったマ建築家の規範と大衆のそれとの間の軋轢。

集合住宅の形態についての論争は、ドイツ近代建築内の様々な立場を明らかにした。機能主義及び合理主義の理想を主張し続けていた、「G」構成員幾人かの融通のきかない態度から、形態の詩学を建築にとって本質的なものとする、グロピウスやメンデルゾーンのような人々の「精神的」な情熱まで多様であった。実際は前者より後者に近かったミースでさえも、厳しい客観的態度についてくり返し述べていた。
「我々は一切の美的省察、一切の教養、一切の形式主義を斥ける。我々はフォルムの問題を認めることを拒む。我々はただ建築の問題のみを認める。フォルムは我々の作品の目的ではなく、単なる結果である。フォルムはそれ自身としては存在しない。
目的としてのフォルムというのは形式主義であり、それを我々は斥ける。」

1927年:ドイツ工作連盟「ヴァイセンホ−フ・ジ−ドルンク住宅展」
参加者:ミース(展覧会の設計及び、一区画の共同住宅)、グロピウス、タウト、シャロウン、J・J・P・アウト、ル・コルビュジェなど)
展示は主に集合住宅のモデル

コルビュジェは二つの計画を設計
@「シトロアン」住宅をより強調したもの
Aピロティを効果的に引き立たせたより大規模な住宅。

・シャロウンの設計は、湾曲した形のバルコニー、そして完全に異なる空間の性質とを持ち、近代運動における個性的で多様な解決策を思い起こさせる。
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それでもなお
圧倒的な印象は、全体としての表現が一致していることであった。その純粋な立方体というボリューム、装飾のない平滑な形、開放的な平面、機械時代のディテール
   ム
ドイツの極右は即座に、国際的な共産主義の陰謀のさらなる証拠であると告発
   ヘ
近代建築の支持者達にとってこの展覧会は、後の1932年、アルフレッド・バーにおよって「インターナショナル・スタイル」と名付けられることになるものの特質を直接的に示したという点で、集合住宅に関する魅力的な教訓以上のものだった。1927年は、新建築にとって国際的なレベルで自己実現を果した決定的な年であった。

 グロピウスは1928年にバウハウスを去り、その手綱をハンネス・マイヤーに委ね、更に、1933年までの数年をミースが指揮し、バウハウスは閉校した。
しかし、バウハウスの理念が息絶えてしまったわけではなかった。グロピウス、ミース、モホリ=ナギ、ブロイアー、アルベルスが1930年代後半に合衆国に移住するとき、彼らはその理念もともに携えて行ったのである。

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