ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 2東洋の都市住居」、彰国社、1985年
はじめに
ここで扱う「東洋的な都市住居」とは、一つ以上の中庭を持ち、中庭に向って開いている都市住居を意味している。これは古代ギリシアやローマのみならず、それに先立つ四大文明でも用いられた古い住居形式である。アジアやアフリカ、南アメリカにおいては、今日でも伝統的にこの東洋的な都市住居が用いられていることも少なくなく、その6,000年に及ぶ歴史に対して畏敬の念をいだかざるをえない。P10
多くの中庭式住居のもつ基本的な特徴の一つは、入口の通路に壁が置かれ、外から内部が見えないようにデザインされていることである。住居密度の増大と同時にプライバシーの確保への欲求も高まり、住宅の内部の中庭を外部の視線から遮る「スピリット ウォール(精霊的な壁)」であるスクリーンが発達することになった。バリ島の人々はこのスクリーンをアリンアリンと呼んでおり、邪悪な心は角を曲がれないので内部に入ってこないと信じている。中国の住宅をはじめとする現代の多くの民家もこの種のスクリーンを備えており、これは中庭式住居のプライバシーを一層優れたものにしている。古代の都市住居の入口にプライバシーのためのスクリーンがよく見られるのは、なんら驚くべきことではないのである。しかしながら、「古典」的な建築の登場により、この古い伝統に終止符が打たれることとなった。その原因はおそらく軸線をもつ左右対称なプランにあるだろう。こうして、ローマ人の住居にはこのようなスピリット ウォールが見られなくなった。P10
メソポタミア
都市国家の出現

シュメールの都市国家文明(B.C.3500頃〜B.C.2300頃)
・主要都市:エリドゥ、ウルク、ウル、ラルサ、ラガッシュ、ニップール
ユーフラテスとチグリスの“川にはさまれた土地”メソポタミア。
・近くに石材がなく、木材も不足→
レンガ組石造が高度に発達。円柱、ピア(大断面の柱)、アーチ、ヴォールトなどを生み出した。
・城壁で防御された都市。城壁は市民の富を誇示する主要な要素であり、都市を訪れる者に与える印象を考えて壮麗につくられた。城壁の内側は街路や路地、袋小路で迷路状。

住宅は中庭を中心に建てられ、ほとんどの部屋は中庭に面し、街路など外側に面する窓はなかった。中庭が変わることのない基本であって、他の生活や労働のスペースはそれに接続するという点で、接合性に富んだものであった。

典型的都市住居は、中庭を取り巻いて幾つかの部屋をもつ。通りに向う玄関ドアを開けると正面にプライバシー保護のための壁のある玄関ホールがある。この入口の近くにある階段で屋上または1階に上がることができる。応接室と台所その他の家事室は1階、寝室や居間は2階にあった。平家の場合は屋上か応接室が寝室となった。これらの特徴は、今日のバグダッドの伝統的住宅に生き続けている。時代を超える不変性に着目したカンタキュジノは、「ウルの住宅プランは都市生活に対する恒久的な解である。この住宅は通りの喧噪から隔絶され、略奪や厳しい気候から保護されている」と述べている。
←ウルの復元された個人住宅
(ゲイストリート3号館)
↑ウルのラルサ期の住宅群。住居の広さの違いはあるが、シュメールでは富者と貧者が隣り合って住んでいた。シュメールにおけるこの貧者と富者の混住は住宅の内向性だけでなく、おそらくはその社会政策にもよっていた。
←ウルの東部住居地区。
大通りは曲がりくねり、住宅まわりの狭い路地はまっすぐになっている。このパターンは人為的というより自然発生的な都市発展を反映しており、主要な商業用街路とその他の生活街路とを区別する独自の自然な秩序をもつ点で、後の時代の格子状道路パターンとは対称的。
純然たる住居地域ではなく、寺院や学校、宿屋、商店、飲食店などがあった(職住一体の生活)。
中世イスラム都市とその住居

ヘレニズム文化の中近東への広がり:アレクサンダー大王はA.D.334年に小アジアを征服し、A.D.331年にチグリス川を渡り、この二つの大河流域をマケドニアの政治的、文化的影響下においた。アレクサンダーはその征服地に26の都市を建設、彼の死後、マケドニア帝国は分割され、バビロニアはセレウコスによって支配されたが、彼は更に60の都市を加えた。
これらの
新都市はギリシアにおける都市計画原理である格子状道路パターン、アゴラ(広場)、公衆浴場、競技場、劇場などの特徴をもっていた。都市の住民は主にギリシア人。ヘレニズム文化の影響は1000年にわたって続き、イスラムの台頭と共に次第に衰えていった。

中世イスラムにおける都市の概念は、ヘレニズムとは異なり、メソポタミアの古代都市を基礎としていた。回教徒の征服者たちはヘレニズムの都市に次第にイスラム風の生活様式を植え付けていった。たとえばアレッポのように城壁は残しながらも内部の都市構造を変えてしまった。アゴラはモスクに変化し、列柱をもつ大通りはスクと呼ばれるバザール通りに、バシリカはゲイサイラ(市場)やカーン(倉庫兼隊商宿)に変わった。

↑アレッポの都市構造の変化。

イスラム都市の住民は、結束と血縁を重視する部族的伝統に根ざす狭い近隣社会に執着していた。ギリシアの征服者たちが残していった格子状の街区やオープンな都市システムはこうした共同体概念にはそぐわないものであった。

道路パターンの変化。建物が建て替えられるごとに、東洋的な曲がりくねった都市パターンが形成され、格子状道路パターンは次第に消えていった。

←古典的な列柱通りがイスラムのスクに変化。

公衆浴場はそのまま使われたが、イスラム社会の社会的、教育的機能はすべてモスク(=イスラム都市の中枢)に集中されていたので、競技場や劇場は利用目的を失った。

←スクを除くと、すべての公共施設は中庭の利用を前提とするデザイン原理に従っていた。イスラム都市は良く整備されており、都市空間と都市施設は段階的構成を成していて、洗練された文化は当時の西洋中世都市をしのぐものであった。

イスラムの都市市民は西洋の都市市民より広い視野を持っており、自分達を特定の都市の市民であるとか西洋的意味での国民であるとは考えず、マホメットによって創造されたウンマ(偉大なコミュニティ)という地理的な境界を持たない社会の一員だと考えていた。

やがて居住区はマハラーと呼ばれる地区となった。マハラーは結束の強い均質なコミュニティである。各マハラーには人種グループや宗派信徒グループ、職業グループ、特定の指導者やマドラサに統合された多民族グループなどが居住。キリスト教徒やユダヤ教徒、マロ教徒など非回教徒も、おのおの自分達のマハラーをつくっていた。マハラーには貧者と富者が一緒に住んでいた。また門が一つか二つしかないため、反乱や内乱、外敵の侵略や疫病の猛威から人々を守った。大きなマハラーは長期の籠城も可能な自足的近隣社会であり、準都市でもあった。こうしたマハラーが集まり、全体としてモザイク状の都市を形作っていた。
↑イスラム住宅における環境調節。古代メソポタミアにルーツをもつ中世イスラム都市住宅は、室内に快適な環境条件を作り出すようデザインされていた。中庭には噴水や池、サルサビル(水が凹凸のある表面を流れてプールに落ち、蒸発によって空気を冷却、加湿する噴水)が植木と共に置かれ、暑い外の通りとは対称的に涼しい雰囲気をつくりだしていた。リウァナット(中庭に面したアーチを持つポルチコ)やベランダ、ギャラリーなどのある空間は、気候条件にマッチしていた。マルーカフと呼ばれる通風口に冷却のための壺が据えられ、垂直ダクトを通じて綺麗な湿った空気を室内に導き、換気を良好に保った。また居室の高い天井も換気を良くしており、住人は床に座って最も涼しい室内環境を楽しむことができた。

・家族のプライバシーと安全を高めるため、イスラムの都市住居はサラムリク(男性客をもてなす公的な部分、下階)とハラムリク(家族のプライベートな部分、上階)という二つの部分に分けられていた。

・イスラムのイデオロギーは質素さを強調していたため、ぜいたくな建材の使用は抑えられた。後の時代には、こうした価値観への固執は弱まったが、内部の贅沢さとは対称的に、外観は比較的単純で質素なままであった。

バグダッドの都市と住居

アッバース朝の王アブ ジャファラル マンスールによって762年に築かれたバグダッドの都市は、三重の同心円状の城壁と四つの城門、およびモスクと宮殿のそばに大円形広場を持つ円形都市として計画された。住居地域は主城壁である第ニ城壁と宮殿を囲む内側の第三城壁との間に造られた。(何世紀にもわたる異民族支配を経た現在は、以前の円形プランの面影は残されていない。)

バグダッドやカルバラ、ナジャフ、モスル、バスラといったイラクの都市において20世紀のはじめまでに建てられた都市住宅は、中世のイスラム住宅の特性を残している。それらを西洋的住宅と比較すると、その空間構成に大きな違いのあることが分かるが、この違いは両者の住宅の機能に対する認識の違いから来ている。

・住宅の各スペースを居間・食堂・寝室などと認識するのではなく、季節によってあるいは時刻によってどのスペースが最も快適に過ごせるかという見方をしていた。地下室からサタチと呼ばれる屋上まで、住宅のなかでその時々の最も快適なスペースを利用するのであり、大部分のスペースは多目的に使われる

・家族の食事の仕方の違い。主人は息子や男性親族と共に女性の家族の給仕によって食事をし、親族以外の大切な男性客があった場合は主人自らが給仕をし、客が食べ終わるまで食事に手をつけない。食べ物は大きな金属盆に盛って低いスツールの上に置かれ、カーペットに座って食べた。これはテーブルと椅子を使うよりもずっと柔軟で融通のきく食事の仕方である。

オダ:最も一般的な居室。たいていは窓がなくドアの上の明り取りから採光。大きい家には複数のオダがある。主に涼しい季節に使われる。
ウルシ:オダよりも広く、縦のスライド窓があり、オダよりも明るい。主に涼しい季節に使われる。
シェナシル:常に2階に設けられる。一面いっぱいに
外の通りに張出した出窓が特徴。主婦たちの社交の場となり、窓から通りの様子を見下ろすことができる。
タラー:三方が壁で、一方はベランダに似た次の間のタルマに向って開き、タルマは四角い中庭であるホシュに向って開いている。
タルマ:中庭に平行な方向に長く、屋根は円柱で支えられている。多くの場合、その
床は中庭や回廊より数段高くなっており、普通正面ではなく横の入口から出入りしていた。
リウァン:タラーに似ているが、長い方の軸が中庭に直角に置かれた。
北向きタラーリウァンは年中日陰となるので夏の間に利用され、南向きのものは寒い風があたらず暖かい日差しが入るので冬の晴れた日には快適であった。
ニム:日中の気温が極度に上昇する夏には、ニムという半地下室セルダブという地下室にひきこもる。ニム床は地面より50cmから1m低く、入口は地面の高さにあって、タルマを通して中庭につながっている。ニムの片側あるいは両側にはタキタボシュという台があり、湿気が多いニム内における乾いた床として使われた。この台の下は収納スペースとなっている。
セルダブ:中庭の地下にあるドーム天井の居室で、天窓から採光。ベンチをそなえたアルコーブの壁面があり、まん中に八角形の水受けのなかにファスキジェという
泉が置かれたセルダブには普通ニムから出入りする。
ムドシャス・ドラン:玄関。ムドシャスはバブと呼ばれるドアに向ってプライバシーのための壁を持つ四角の玄関。ドランは正方形か八角形のドームを持つ玄関で、通りから中庭を見せないように二重にドアが付いている。
モトバキ:台所。採光、換気のためのシャフト(縦坑)が設けられている。
アンバー:倉庫。
ハマム:風呂。
アデブチェーン:トイレ。
イウェンチ:廊下。
ケビシュカン:中2階の部屋。天井の高い主室に続く廊下には中2階が設けられ、廊下の狭さと天井の高さとの不釣合を避けた。主室を見下ろす格子窓があり、ハラムリク(家族のプライベートな部分)にいる人に利用された(姿を見られずに隣の応接室で行なわれるパーティを共にすることができた)。
大通り、路地、入り組んだ袋小路という段階的な街路網

・建物の敷地は形も大きさもまちまちで、小さな中庭を除けば空き地は全くない。建物の上階はしばしば道路にまではみ出し、狭い道路に影を落とした。イスラム社会においては、宗教上の法以外の法律は存在しない。宗教法は個人の行動の規範を定めたものであり、建築活動を規制するような条文は含まない。例えば人は隣家を覗いてはならないし、また家の前面道路の中心線までは私有地として認めるものの、隣人が彼の地所に立ち入るのを故意に妨げてはならない。さらに、物的損害がない限り隣人が彼の家の外壁を利用し、荷重梁を通すことさえ拒否してはならない。また、宗教法は明らかにコミュニティ全体の利害よりも近隣の利害を優先している。例えば人は家の前を隣人が自由に通行できるようにしなければならないが、かといって一つの居住区から他の居住区へと通過することまで許容するよう求められているわけではない。

↑アルカジミヤの街路

←アルカジミヤの小住宅

この数十年の間に多くのイラク人は西洋風の生活と住宅形式を取り入れてきている。一般に外国の習慣を最初に取り入れるのは裕福な人々なので、彼らはマハラーを去り、都市のもっと「良い」地区へ移ってしまった。またバグダッドの新しい住宅地域における居住地の形態も、マハラーのもつ土地利用効率の高さを評価するよりも、西洋の都市や郊外のような行き止まりのない街路パターンを目指している。高所得者の住宅は造園やエアコンによって過酷な気候条件に対抗できるが、低所得者の居住地区ではそうはいかない。西洋の著名な建築家や都市計画家によってデザインされた新しい「ヒューマン セクター」においては、新しい広い道路は焼けつくような暑さを和らげることができない。水が不足しているため、西洋の郊外のように植樹が上手く行くかどうかも疑問である。行き止まりのない街路パターンと西洋的な都市空間のあり方、そして居住地が所得によって別れていることは、東洋的な環境調和の原理に反しており、イラクやその他の中近東および北アフリカの諸地域の風土の実体とは相容れないものである。

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