ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 2東洋の都市住居」、彰国社、1985年
中国
中国の都市と住宅:中国の古都市は、いずれも正方形かそれに近い形という共通点をもっている。大地は矩形であり、天は円形であるという古代中国の思想に基づくものである。集落や都市の物的配置と区画だけが直線的だったというわけではなく、都市周辺の農地もまたほぼ矩形で左右対称に区画されていた。古代文明の他の都市と比べて、中国の都市は全く初期段階から、定められた境界線以上に広がることのない理路整然とした統一体として計画された。北京は例外として、それ以外の都市では他の古代文明と同じくシンプルプランの原理に従った。すなわち、城壁をめぐらせること、南北の軸線直線的な格子状の街路および中庭式住宅がその内容である。中国語においては、都市と城壁とは同義語であったが、実際、城壁は都市の外側の景観ばかりでなく、内側の空間構成にも見られる。最も粗末なものから見事なものまで、すべての建築群は、個々の囲いと中庭を有していた
城壁や囲いはすべて南に向いていた。大小の建築群は、冷たい北風から外部空間が保護されるとともに日だまりの役割をも果たせるように配置された。この効果は、主要な建物を中庭の北面に平行に配置し、二次的な建物を東側と西側に置くことで確保された。快適な中庭は、「天国の泉」と称された。

街路は市場でもあったが、商品の製造はほとんど家のなかで営まれたので、住宅は仕事場としての機能をも持つように設計された。都市で商業が栄えた結果、中国のブルジョアジーが誕生した。「中国のブルジョアジーの生活水準は、当時のギリシアやローマのそれよりも高かった」というデュランの評価はおそらく正しいと思われる。

典型的な都市住居は、中庭の周囲を幾つかの建物が囲む複合体住居であった。門(左右対称なプランのなかで、出入り口は中心軸から外れている。人間は完璧な存在ではないので、中心軸上に門をつくることは神への冒涜とみなされた。)を入るとすぐにスピリット ウォール(悪霊避け。悪霊はまっすぐにしか進めない)があり、それを回って家屋に達する。気候条件は、中庭と家屋の配置を規定していた。北方では中庭の方が家屋面積よりも大きく、南方ではこれと反対であった。さらに住宅の深い庇が太陽の強い日差しから中庭を保護した。

北京:現在の北京の位置に、最初に建設された都市はB.C.1121年に燕国の主都として建てられた薊(ケイ)であった。この都市は周の支配下にあった封建国家のうちの最北端にあり、幾つかの主要な商業ルートの合流地点であった。B.C.3世紀に秦の始皇帝によって滅ぼされた薊は、次の漢の時代(A.D.70年)に幽州として再建された。漢の末期、幽州は匈奴の支配下におかれた。B.C.986年には、遼の支配下で再建されて燕京と呼ばれるようになり、今回は以前よりも規模が大きく、四周を囲う城壁にはそれぞれ二つずつの門があった。門の上にそびえる塔の高さが99ftに抑えられたのは、あと1ft高くして100ftの高さになると鬼が飛び交うと信じられたからである。皇帝の宮殿は都市の南西の隅にあった。12世紀になると金がここを首都と定め、中都と名付けた。同時に都市を東に拡大し、以前の約2倍にした。中都はその後ジンギスカンによって征服され、元の首都となり、大都と呼ばれることになった。13世紀に行なわれた大運河の拡張以後、北京ははるか遠くの地方と水路の輸送網で結ばれるようになった。この都市の街路は、屋台や商店で満ち溢れていた。各地方に通じる道路沿いに40〜50Km間隔に大きな村が形成され、農民たちは皇帝の支持でそこに定住した。これらの農村集落の間には約2.5Km間隔で平均40戸程度の小さな村ができた。
明の皇帝がモンゴル人の支配者を追い出し、首都を南京に移した後、大都は国境の一要塞都市となった。しかし第3代の明の皇帝は王宮を北方に移し、その地を北京と名付けた。1949年以前の20年を除けば、北京はそれ以来ずっと中国の首都であり続けている。1644年に満州族に征服されて清朝となり、中国は再びタタールの支配下におかれたが、都市形態に基本的な変化はなかった。満州族は内城を占拠したため、ここはタタールシティとして知られるようになった。外城はチャイニーズシティ(中華街)と呼ばれた。
都市のプランは明解で把握しやすかった。域壁で囲まれた4つの地域があり、南に外城、北に内城があり、内城には皇城があって、さらにそのなかに宮城すなわち禁裏があった。外城、内城、宮城の周りにはそれぞれ濠をめぐらしていた。皇帝の宮城のある内城の建造物や宮殿は儀礼的であり、軸線的な計画原理に基づいている。赤い城壁で囲まれたことから紫禁城と呼ばれた。その面積は1.65kFで、自然的景観を醸し出す人工湖にそびえる帝都は、公園のような情景をたたえ、それほど形式的なものではなかったこのような性格の相違は形式ばった内城とそうでない外城の関係にも見られる
外城は商業地域として発展。タタールシティではいかなる商業活動も許可されず、土着の中国人たちは外城に移住しなければならなかった。外城の人口密度は非常に高く、1kF当り32,000人に達する地域もあった。大規模なオープンスペースはすべて宮廷か貴族や金持ちの所有物であり、公共施設としての公園がなく最低の密度と最大の(高密度な)貧困が都市地域のなかに併存していた。貧困階級は、外城の北東部および北西部の隅と内城の北側に集中していた。
北京の代表的な地域では、大通りと地区内の2本の通りに沿って多くの商店が軒を列ねた。住宅地の街路は非常に狭く、ところどころに出入口のある長くて単調無味な壁面が特徴的であった。最も重要なことは、お金持ちと貧乏人のそれぞれの住宅や商店が、モザイク状に入り混じっていたことである。

北京の住居:住宅地の街路沿いには、生活や美しさを表すものはほとんどなかった。それらはすべて、住宅を保護している平坦で灰色のレンガまたはプラスター塗りの赤茶けた塀の背後にひそんでいた。住宅は、外界に通じているのは簡単な扉と独特の小さな切妻屋根付きのポーチだけであり、防護の行き届いた場所であった。基本的にいって、すべての家族はそれぞれに小さな共同体を成していた。結婚した息子の家族が両親と共に住むことも多かった。塀は、侵入者から家族を防護するとともに、その成員を閉じ込める役割を演じていた。特に女性は塀の内側に閉じ込められていた

街路側のファサードは普通単彩であったが、インテリアは豊かに装飾されていた。強烈な色彩を施すのが普通で、レンガ積の部分と桟瓦は灰色で、木造の部分は深い紅色で彩られた。彫刻を施した扉の羽目板は金色で引き立てられることもあった。中庭には樹木があふれていた。

↑中庭が二つ以上ある住居は、南北軸に対して左右対称に配置された。空間構成は、伝統的な中国の家族構成(家長主義で儒教の道義に基づく拡大家族)に対応している。父は家長であり、年長者は目上の立場に立つ。階層的序列のあるこの住居の最も奥まったところに家長の居室があった。
↑かなり裕福な家庭の典型的な都市住居は四合院であった。塀をめぐらした囲い敷地で、基本的には南北軸を持つ中庭を有し、これを四つの建物が取り囲んでいた。住居への入口は通常、敷地の南東隅にあった。大門を入ると衝立て壁がある。南の建物は街路に接して北を向いており、階級的序列からは最も低い。東西の二つの建物は、未婚の子供や結婚した息子夫婦のためのもの、そして敷地の奥の南向きの主要建物は家長のものである。
壁は普通高さ3〜4mの組積造の上にしっくいが塗られたもので、瓦屋根がのっていた。伝統的には北京の住居は柱と梁の架構に組積造の壁がはめ込まれたものであった。柱と梁は普通2:3の長さの長方形をつくっていて、何組の柱・梁を持つかで住居の大きさが示された。
家屋の大きさは財力よりもむしろ法律や慣習に規定されていた。平民は3間、五等官以上の身分ならば5間の家屋をたてることが認められた。
北京の住居は、個人の領域を階級的に区分した。見知らぬ来訪者や行商人は玄関ホールのみ、普通の来客は中庭および応接室、身内の者や親密な友人だけが個人の部屋に通された。複数の中庭のある住宅では、おのおのの中庭の入口は、家屋のなかの隔離された個人的領域に近づくことを意味した。

台所はベランダの一部分、もしくは広い戸外に置かれた。浴室はなく、洗濯と入浴は個々の部屋で行われ、持ち運びできるたらいまたは浴槽を使用した。便所はほとんどが街路に接した塀の近くの小屋にあった。


伝統的な北京の住居形式は何百年もかけて形成されてきたものである。さらに、住民が住宅のデザインについて個性を強調しなかったこと、大工たちが伝統的構造様式に固執してきたことが相まって、北京の住居は今世紀の中期に至るまでほとんど変化してこなかった。
しかし1949年以降、住居建築の規模は根本的に変化した。政府の政策は、旧北京の市街の調和ある美しさを保存するところであり、新しい建物の高さや立地が制限されている。しかし、多くの四合院(=中庭住宅)は学校、作業場、集合住宅に改造された。新しい住宅建築は、一般に3〜6階建てのアパートで、これらはどれも伝統的な東洋の都市住宅の外観を伝えてはいない。

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