ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 2東洋の都市住居」、彰国社、1985年
エジプト
古代エジプト人はナイルに沿って多くの州からなる広域国家を形成していた。エジプト人は壮大な建築を造っているし、立派な都市を建設する技術も持っていたであろう。ところが彼らはその技術を生きているもののためでなく、何よりも死者の永遠の住みかの建設にあてたのである。おそらく、このような死とその永遠性を重視する考え方は、彼らが経験してきた幾多の有為転換によってもたらされたものであろう。何千年もの間エジプトの土着民は遊牧の生活を送っていたが、農耕の発展に伴って定住するものが現れた。定住生活という新しい条件とそれに伴う新しい価値観の表現として永遠性のシンボルが必要とされたのであろう。ピラミッドは斜めの面を持っていて崩壊することがなく、理想的な永遠性のシンボルであった。アラブの諺はピラミッドの永遠性を「世界中のどんなものも時間には勝てない。しかし時間もピラミッドには勝てない」と表現している。

石造のピラミッドや岩をくりぬいたネクロポリス(埋葬地、死者の都市)とは対照的に、住宅は時間の猛威に耐えられない日干しレンガなどのもろい材料で造られていた。また、エジプトは比較的平和であったため、都市は城壁を持つ必要がなく、都市構造はゆったりとしていて、内部が城壁で締め付けられることはなかったようである。エジプト王国はB.C.526年にペルシアの侵略によって滅亡。その後数世紀にわたって異民族の支配下におかれることになった。ペルシアはB.C.332年にアレクサンダー大王のエジプト占領によって追放され、大王はヘレニズム都市アレクサンドリアを築いた。アレクサンドリアはその後エジプトの都となり、1,000年以上も続いた。

カフン:第12王朝のセソストリス2世は、B.C.2670年頃ピラミッド建設を開始し、建設従事者のためにカフンの町をつくった。
↓幾何学的な街路パターン。ほとんどの住宅は同一のプランを持つ。Cは複合住宅。
デール エル メジナ:トトメス1世(B.C.1540〜1501)の治世下に、ピラミッド建設に携る人々のためにデール エル メジナの町がテーベの近くにつくられた。この町は3度拡張されたが、その街路パターンはカフンに比べてあまり整然としたものではなかった。

典型的な住宅は、奥行の深い矩形の敷地に建てられた平家である。入口の床面は街路から3段下がっており、普通その一角にはほこらが祀られていた。そこから2段上がるとメインホールへ入る。メインホール中央に天井を支える木柱があり、寝室に通じるドアと廊下に通じるドアの間には低い壇が置かれている。段の下は階段となっていて、はねぶたを上げると地下室に通じている。寝室と廊下は少し高くなっており、裏庭は更に高くなっている。裏庭は主に台所として使われ、土カマド、石の水鉢、こね皿、貯蔵庫などが置かれていた。また裏庭からは屋上に上がる階段と別の地下室へ下りる階段がある。
日干レンガでできており、屋根はしゅろの木と葉に土をかぶせてある。床は土を打ち固めたもので、おそらく石灰が塗られていた。主室の壇もレンガで作られているが、石灰石の縁と肘掛けが取付けてある。窓は天井に接して高いところにあけられ、木か石の格子がついている。

テル エル アマルナ:都をテーベからアケトアトンに移したイクナトン王は、都の東に労働者の町テル エル アマルナを建設した。テル エル アマルナは4方を辺h辺70mの壁で囲まれた1ha足らず町である。

典型的な住宅は間口5m、奥行10m。玄関ホールあるいは前庭、中央ホール、奥の寝室および台所の3つの部分に分けられるのが一般的なレイアウト。前庭は多目的に利用され、家畜を飼ったり、仕事場にしたり、炊事等の家事スペースとなったりした。主たる居住スペースである中央ホールの屋根は、まん中の円柱によって支えられているが、この中央のスペースが屋根のない中庭で、玄関部分に屋根が掛けられているケースも見られた。今日のスーダンに住むヌーバ族は、通風を妨げないで日陰をつくるために、よくござやすだれで中庭に覆いをかけるが、おなじことが行なわれていたであろうと思われる。

アル フスタート:エジプトにおける最初のイスラム都市。交易の重要な中心地となり、1054年の大飢饉と疫病の流行まで繁栄を続けた。その後は見捨てられ、その廃虚は長い間カイロ建設の資材供給源となった。

典型的な住宅は、中央に池のある中庭を一つか二つ持っている。それはシンメトリックに配置されていて、三連のアーチを持つリウァナット(ポルチコ)が中庭をとりまいている。イスラムの伝統に従って、大きな住宅はサラムリクという公的な部分とハリムという私的な部分に区分され、各々別の中庭を取り囲んでいた。

←比較的小さいタイプ。プライバシーのための壁が通りからの視線を遮り、曲がった通路が玄関と中庭をつないでいる。三つのアーチを持ちT字型をしたリウァン(日除けのある中庭)が主要な居住スペースであり、中庭に面している。住宅の敷地は不整形であるが、内部は軸線状の配置をとっている。
↑中庭は一つだが大きな住宅。中庭の西側は典型的なT字型のリウァンとなっており、その南側は折れ曲がった廊下となっていて、おそらく横の入口に通じていたのであろう。中庭の南面と北面は単純なリウァンになっており、東面には泉水のあるアルコーブがあった。ここでも不整形の敷地にシンメトリックな建物が建てられていた。
↑狭い通路でつながれた2棟の住居からなる大きな住宅。住宅の公的な部分に入る表の入口は南にあり、プライバシーの壁を持たず、細長い玄関はリウァンの横のポルチコに直接続いていて、そこには水盤の置かれた中庭がある。中庭の西側にある狭い通路は家族のためのハリム(住宅の私的部分)に続いていて、そのレベルは公的部分より3段上がっている。No.2の住宅のすぐ北隣の住宅は中規模の住宅で、バザール通りに入口を持っている。おそらく商店主の住宅である。ささやかな住宅だが、それでもイスラムの教義に従って二つの中庭を持ち、公的部分と私的部分を分けていた。

エジプトを征服したアラブ人たちは、さらにイスラム領の拡張を続け、670年までにチュニジア、アルジェリア、モロッコを含むアフリカの地中海沿岸を支配下に置いた。そして671年にはベルベル人の力も借りて、マグレブ(西部:アフリカの地中海沿岸占領地/マグレブの都市建築参考写真)からスペインへと攻め込んだ。東洋の中庭式住宅の理念は、この征服者たちの道筋を辿って伝わっていき、今日でもこの地域の典型的な都市住宅として残っている。もちろんアラブ人より前にこの地域を占領していたローマ人も中庭式住宅に住んでいたが、彼らの住居も元はといえば東洋の影響によっていたのである。
ダー(↑←):北アフリカの中世の都市住宅(↑)。中庭の周囲に主室があり、主室は細長く幅は3mを超えることはない(木材不足から梁の長さが限られるため)。このような不釣合な狭さは、部屋の入口に向かい合う壁に設けられた広い床の間のようなベホウなどによって相殺されていた。玄関ホールは、ドアが開け放しになっていても内部が見えないように工夫されている。
18世紀に北アフリカ沿岸諸国を旅したトーマス ショーの記述
「今でも北アフリカの建築の方法はほとんど変化、改善されることなく、昔のままで行なわれているようである。大きなドア、広い室内、大理石の床、回廊で囲まれた中庭、その中央にある泉水などは、夏の暑さの厳しいこの地方の環境条件に適した設備である。
「さらに時折、格子窓やバルコニーが通りに面している場合を除けば、すべての窓は中庭に面しているので、家長は余計な警戒心を抱かずにすむ。お祝やお祭りのときだけ、これらの家、その格子窓やバルコニーは開け放たれる。この無礼講の期間には、人々は飲み浮かれて大散財をし、各家では最もぜいたくな調度品で家の内外を飾り立てるのに夢中となる。男も女もみな着飾ってあらゆる慎みや礼儀、遠慮を忘れてはしゃぎ回る。」

夏期や何かの行事があって大勢の客があるときには中庭にロープを張ってその上に天蓋や傘あるいは天幕を開閉して厳しい環境条件を避けることがよく行なわれる。詩篇の作者の『カーテンのように楽園を広げる』という美しい表現は、このような覆いのことを言っているらしい。」

↑ダー スファーと呼ばれるこの広い家は、ショーの記述した住宅に似ているだけでなく、アル フスタートの住宅のようなイスラム住宅の特徴も持っている。中庭を囲む四つのリウァンのうち三つは、アル フスタートのものとよく似ている。もう一つのリウァンは近代的なヨーロッパの影響を受けている(接客に利用)。中庭の他に二つの小さな庭があり、一つは台所に接するサービスコートであり、もう一つは伝統的なリウァンのマカド(涼み廊下)に面した娯楽のための庭である。このリウァンは主人夫婦の日常の居室として最もよく使われる。


←土地利用の分析。
住宅が大きければそれだけ街路面積は小さくなるが、図を見ると、道路面積が減った分だけ中庭の面積が増加していることが分かる。従って74%という建ぺい率はバグダッドとほぼ変わらない。


カイロの都市住居:シーア派回教徒のファーティマ王朝はアル ミズの治世にエジプトを征服し、969年に新しいイスラム都市アル カーヒラの建設を開始した(現在のカイロ)。回教の都市計画理念に忠実な典型的イスラム城壁都市であり、南北の大通りが都市の幹線となり、二つの大きな城門を結び、東宮の南にアル アズハーのモスクが建っていた。幹線部分が秩序正しい構成を持つのと対照的に、居住地区は不整形であり、イスラムの伝統に従った東洋的な特徴をもっていた。その住宅も中庭を持つ内向きの住宅ダーであった。大小の住宅が混じりあっていて、親密なマハラー(近隣社会)を形成していた。1250年以降はマムルークの王が、1517年にオスマントルコに逐われるまでエジプトを支配。オスマントルコの影響はイギリス領となる19世紀末まで続いた。オスマントルコによる影響は、同じく回教徒であることから、初めはとるに足らないものであったが、最終的に幾つかのトルコ独特の特徴がカイロの住宅に取り入れられた。家のインテリアだけでなく、外観においても富や社会的地位を誇示するようになったことである。

街路から入る二つの入口があり、おのおのディルカと呼ばれる通路に通じている。入口の一つはサラムリクの中心であるマンダラに通じており、もう一つの入口はハリムにある中庭(ホシュ)に通じている。

マンダラは必ず1階にあり、その中心にある交差ヴォールトをもつスペースはダルカと呼ばれ、ほとんどの場合、床に大理石のモザイクをちりばめ、中心には池あるいは噴水(フェスキア)が設けられた。入り口の向かいの壁はたいがい小円柱(ズファ)で飾られたアルコーブが設けられている。ダルカは通路の間であり、客があるときは召し使いたちがここに控えていた。ダルカの両側は伝統的なイスラム様式の応接間。

ハリムの1階にあるのは慣習に従って家事室であり、主要な居室は2階にある。2階へはホシュから階段に通じる2つの門のいずれかを通って上がっていく。一つの階段はマカドと呼ばれるベランダに通じており、その隣にはカズネーと呼ばれる私的な応接室があり、それにはホシュに張出した格子出窓を持つバルコニーが付いていて、家の女たちが姿を見られることなくホシュやマカドでのパーティの様子をのぞくことができる。

カーは家族の私的な居室である。マンダラと同じ形式で中央は半地下の少し低くなったダルカになっていて、窓のある木造のドームから採光。ダルカを挟んで二つのリウァンが向かい合っているが、その腰壁は大理石でできており、天井は木の梁を塗装したものである。

二つ目の階段はホシュから離れていて、カーと1階家事室を結ぶ家族専用となっている。

トルコとヨーロッパの影響が見える19世紀のカイロの住宅:19世紀になって初めてカイロの住宅にトルコやヨーロッパのデザインが強いインパクトとなって表れ、伝統的イスラム様式に変化をもたらした。
中庭はもはや家の中心にはなく、その一隅にはトルコ風のキオスク(あずまや)も見られる。幾つかの部屋には通りに面した窓もあるし、住宅内の公私の区分もはっきりしたものではない。
主応接室であるマンダラは主屋の1階にあり、長いヴォールト天井の廊下が小さな中庭からマンダラのダルカまで続いている。
ダルカには中央に噴水があり、真上から光の差し込む3層のドームからなる印象的なスペースとなっている。それをカーの小さい格子窓から眺めることができる。
2階には中庭に面して2層の二連アーチのある応接用のベランダであるマカドがあり、専用階段がついている。
3階は家族の私的な部屋であるカーとなっている。カーのダルマはマンダラのものより小さい。そのダルカの中央から二つのリウァンが続いており、どちらも窓から採光している。そして中庭の側のリウァンにいる家族は
二つの小窓からマンダラを見下ろすことができる。


20世紀になると、カイロにおいても西洋のデザイン手法が主流となり、外国の住宅様式が持込まれた。それでも伝統的東洋的都市住宅が消えたわけではなく、特に旧市街地ではまだ多く見られる。そして伝統主義的な建築家たちによってはじめられた土着的な伝統的価値の再認識の動きが、中庭式住宅の生き延びる道を切り開くかもしれない。

カイロの旧市街には現在でも東洋的都市の特質が残されている。その広い通りには商店や作業場が建ち並んでおり、曲がりくねった狭い路地は昔ながらの中庭式住宅につながっている。四つ辻は小さな広場になっていて、行商人や小さな屋台店が出ている。カイロの街路パターンとその段階的構成は、環境にかなったものである。

南北の通りは幅広く、その歩道は道路上にせり出した建物によって日陰となっているが、東西の通りは狭く曲がっていて南面する建物から日除けのための庇が張り出している。ここでは北からの風が多く、南北の商店街の通りを吹き抜けるが、交差点では風圧が低下する。そしてこの圧力低下による吸引作用によって、狭い横道にも風が通るのである。圧力差による通風のしくみは、二つの中庭を持つ大きい住宅のデザインにも応用されている。日のあたる広い中庭の空気は軽く気圧が低いため、日陰になった涼しい小さい中庭から風が通るのである。カイロの旧市街に今でもはっきり見ることのできる東洋的都市空間の構造は、環境的条件と社会的条件および経済的条件の調和がもたらしたものなのである。

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