ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 2東洋の都市住居」、彰国社、1985年
ギリシアとローマ
ギリシア、ヘレニズムおよびローマの都市

古代ギリシアとイオニアの都市はB.C.900年から600年の間に発展した。例えばアテネは、B.C.8世紀にアッチカ地方を統一して後、都市として重要な存在になり、更に有能なペイシストラトス政権(B.C.572〜546)によって卓越した都市となり、ペリクレス時代(B.C.443〜429)に黄金期をむかえた。
マケドニア以前のギリシア文明は、
都市と田園からなるポリスの発展と密接に関係している。ポリスでは都市とその周辺の田園とが政治的にも、社会経済的にも相互に依存し合っていた。“都市国家”という用語はこのポリスの意味を十分に表してはいず、学者のなかにはこの解釈に反対する者もいる。
ギリシアのポリスは
都市成長のコントロールと領地拡大について独特な政策を持っていた。都市がある大きさに達すると、それ以上の発展は抑えられ、新しいポリスがつくられた。そのため、新しく形成された都市は親にあたる都市の植民地のようなものであった。この政策の基礎には、都市の人口規模とそれを取り巻く農地の食料生産能力との間の社会生態学的釣合いを維持するという考えがあったに違いない。ギリシアでは地力に限度があり、古代文明がつちかわれた肥沃な沖積地とは比ぶべくもない
同時に、この植民都市開発政策は、その副産物として、文明の基盤の一つとなる貿易、商業の拡大をもたらしたことも重要である。なかでもイオニア同盟の最も富裕な都市ミレトスは、拡大するギリシアの交易活動において重要な役割を果たし、ギリシア文明の独自性を形作る新しい考えや影響をもたらした。

B.C.5世紀初めの10年間にはペルシアが侵入し、ギリシア都市の急増にストップをかけ、多くの都市を破壊したが、20年間に及ぶ戦闘の後、ギリシアはB.C.479年にペルシアを破った。その後の比較的短い繁栄期には哲学者、科学者、政治家を輩出し、その思想が、西洋の生活様式の多くの面に消しがたい影響を残すこととなった。ただ、住居に関してはその例外であった
ペルシア人による破壊の後、廃虚となっていたギリシアの都市は再建され、アテネ(↓)は以前の有機的な都市パターンを復元した(アテネの街路は計画的につくられたものではなく、自然発生的に形成されたものと思われる)。しかし、新しい考えを育むという伝統を持っていたミレトス(↑)は、古い様式を拒否し、格子状の街路を持つ都市を建設した。これはその後の行く世紀にもわたって西洋の都市計画の規範となることとなった。このプランが、1世紀のローマ支配下の都市拡大を含め、後の時代における発展をも決定付けたのであった。ミレトスの城壁内の面積は約89haと比較的小さく、市内の最も遠い場所へも、城壁の外へも、容易に歩いて行けた。実際、古代都市の規模は一般に小さく、このことでギリシア市民や東洋の祖先が、密集した住居地域のなかの小さな中庭で満足していたことを説明することもできよう。つまり、広々とした田園の空間が身近にあったからである。
ギリシア都市の主要な構成要素は、的に包囲されたときに市民が逃げ込む最後の要塞であったアクロポリス、神殿の並んだ宗教的な聖域(アクロポリスにあることが多い)、都市の中心広場であり、民主政治の場でもあったアゴラ、そして劇場や闘技場などの文化施設である。住居地区は都市のなかで最大の面積を占めていた。
初期のギリシアの都市の住居地区は、東洋の都市に似ており、連担して有機的に発達した結果、迷路のような街路網と無数の狭い路地で構成されていた。東洋の都市と同じく、家屋は派手な装飾を嫌い、庶民的な間隔で外観の控えめな小さなものであった。しかし、ほとんどの市民が中庭のある住居に住み、その私的領域において家族の生活や仕事の多くを営んでいた。この中庭を除くと、都市のなかに庭園はほとんどなく、精々住居の裏や横に狭い空間がある程度であった。家の内部は簡素で装飾は最小限、家具も少なかった。調理は戸外で行われ、料理をテーブルの上に並べて部屋のなかに運び込み、食後はテーブルごと片付けて運び出した。

ペリクレスが死亡(B.C.429)した後、ギリシアは低迷期に入りマケドニア期を迎えるまでは、新しい都市は全く建設されていない。アレクサンダー大王の遠征による新しい時代の始まりは、その後2世紀の間にたくさんの都市の建設をもたらした(ギリシアにおける都市計画の成熟)。ヘレニズム時代にギリシアの勢力範囲はアレクサンダー大王の征服の後をたどって拡大し、エジプト、メソポタミア、ペルシア、インドといった古代文明発祥の地3か処を含む地域に及んだマケドニア帝国の時代には多数の新都市が建設されたが、それらはいずれもミレトスのプランにならったものだった。イオニア海岸のプリエネペルガモン、ナイル川の沖積平野上に建設されたアレクサンドリア、チグリス川沿いのセレウキア、パンジャブ地方のジェルーム川沿いのシルカップ、ベズビオ山麓のポンペイなどがヘレニズム時代の都市のなかでよく知られているが、地理的にも異なった地域を占めているこれらの都市の住居は、すべて内側に向いた中庭住居の形式を受け継いでいた。住居は規模が大きく、また装飾も少し多くなったものの、基本的にはギリシア時代初期の中庭住居にそっくりであった。

ヘレニズムからローマへと文化は移り変わっていったが、ギリシアの文化・芸術は優れたものとしてローマで受け入れられ、両者の間にはっきりした境界を画すことは不可能である。街区パターンや建築様式においても、ローマ帝国が確立されるまでは、際立った変化は見られなかった。かように、ローマの文明はもともとギリシアの文化の上に成立したものであったが、ローマはその文明に200年にも及ぶ秩序と繁栄と平和をもたらし、さらに2世紀以上にわたって略奪や戦いがなかったので、古代の遺産を西欧に伝えることができたのである。

ローマ時代の都市における住居地区は、ローマ市も含めて、当初は東洋的な性質を持っていた。迷路のような路地と狭い道路からなる街路網で構成され、家々は極めて密集して建てられていた。家屋はアトリウムと呼ばれる中庭式住居で、簡素なファサードを持っていた。金持ちと貧乏人が、貴族と職人が、隣接して暮らしていた
一般市民はこのような東洋的伝統を好んだが、都市にモニュメンタルな秩序を持込もうとしていた当時の支配者は、そうした傾向を受け入れなかった。64年にローマで大火災が発生すると、広範囲に及んで再建を行うよい機会がもたらされた。こうして、古代ギリシアに機嫌をもつ格子状の街路網と矩形のブロックを基本とした都市再開発が行われた。こうして建設された長方形の街区には、高層の安アパートが密集して建てられた。4世紀中ごろのローマにおいては、個人用の住宅は、1,797戸であったのに対し、アパートは46,662とうに及んだ。各アパートには平均5戸の住戸があり、少なくとも1戸に5〜6人が居住。6〜7階建てのものもあったが、いいかげんにつくられるために崩壊することもあった。アパートの1階には、たいていタベルナと呼ばれる店鋪があり、2階以上が住居となり、危険な部屋に下層民が住んでいた。こうしたアパートが発生した結果、街全体に色々な職業の人が入り混じって生活するという東洋的な伝統が、ローマから消えていった。黄金時代をむかえ、ローマは居大都市へと成長した。まさにメトロポリスであり、人口は100万人を超えていた。これだけの人口を抱えて、ローマ近郊で生産される食料だけでは足りず、多くを輸入に頼り、その貯蔵のための倉庫がテベレ川岸に建てられた。当然のことながら、交通渋滞も発生し、日中の馬車の通行禁止などの措置がとられた。大都市が膨張すると、当然に田園地帯が遠くなる。ローマでは中心部から周辺までの距離が長くなりすぎたのみでなく、都市均衡の田園地帯の大部分が金持ちや貴族の宮殿や夏の別荘で占有された。そのため、市内に公園を設けなければならなくなり、3世紀頃には数カ所の公有の公開緑地が設けられた

ローマ文明は当時の人々が考えたように永遠に続くことはなく、帝国は5世紀に崩壊した。ローマ文明の名残は東洋のビザンチン帝国の首都であるコンスタンチノープルに伝えられ、そこで約千年にわたってローマの都市文明が栄えたといえる。しかし、ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパの他の地域には渾沌とした暗黒時代がもたらされ、中世都市が成立するまでの何世紀にもわたって都市文明の伝統は中断された。その断絶の間に、中庭をもち内に開かれた東洋的な都市住居の様式はほとんど忘れ去られ、わずかにキリスト教会における修道院や僧院の建築様式としてのみ生き残ったのである。


ギリシアのペリスタイル ハウス

B.C.5世紀以降、都市部においてギリシア固有の広間型住宅(メガロン)は、東洋の中庭式都市住居をギリシアに適応させたペリスタイルハウスに次第にとって変わられていった。この新しい都市住居の中心となる空間は、何辺かを列柱で囲んだ中庭(ペリスタイル)である。中庭は主室を快適に保つため、住居の南側に設けられた。道路や隣家に接した中庭は組積造の壁で見えないようにされていた。大きな家になると二つ以上の中庭をもつこともあるが、通りから見た外観は一般に目立たない、質素で単純なデザインになっている。対して内部では、贅を尽くした富を誇示することができた。

←建築家ウィトルウィウスによるギリシア住居平面図。

奥の家庭用中庭は南面を除く三面に列柱をもつのが理想的で、南面する一辺は住居の主要部分であり、装飾された梁で区切られたポルチコがあった。このポルチコの奥行は幅の3分の2であった。
ポルチコの奥には女性の使う広い居間があり、またポルチコの左右にはタラモスとアムピタラモスと呼ばれる部屋があった。そして、列柱に沿って食堂や奴隷の部屋などが配置されていた。


オリュントスの道路に面した街並。理想的な簡潔さと道路面に窓のないファサード。しかし、少しも画一的ではない。ギリシアの住居では階級的区別はほとんどなく、あったとしても控えめにされていた。

オリュントスの街区は5戸の住居が2列にならんでおり、住居の各辺は1辺が18m強の正方形である。おそらくは排水路であったと思われる狭い路地が家並みを2つに分けている。

←日常生活の在り方を反映したプラン。
夜の生活と昼の生活男性の領域と女性の領域がゾーニングされており、ギリシア人の家庭内部の状況、特に滅多に外出することのない女性の地位と役割が分かる。また、男性が自分自身の私的生活を守りたいと考えていたことも分かる。アンドロンと控えの間からなる2部屋はは娯楽と宴会に用いられる男性の領域である。一方、中庭の周りは女性の領域である。食堂と居間として使用される北面したホールと料理以外の家事を行う居室であるオエクスなどである。
家の南側の部分は主に昼の生活の場であるのに対し、寝室のある北側部分は最も私的な領域であり、夜しか使われない。すなわち、
住居には本来境界線があり、一つは男女の領域を、もう一つは昼と夜の生活の場を分けているのである。

←B.C.5〜4世紀頃のアテネの隣り合った住宅は、別のタイプの中庭形式の住居を示している。小さい方は公私の領域の区別がなく、大きい方は公私の領域が明確に区別されている。
←マケドニア期以降のアテネの中庭式住居。依然として不整形な敷地に建っている。この家の中心空間は、まさに列柱廊下に囲まれた中庭そのものであり、また2階が家族の私的な領域となっていることなど、バグダッドの住居とよく似ている。南東の付加的な庭は珍しいものである。
デロスの住居地区
プリエネの住居地区
偶発的に成長した街路と無計画に増加した建物を持つアテネだが、健康や快適さをなおざりにした成長は問題を持っていた。テミストクレスによるアテネ改造のあとでも、住居地区の街路は狭く、曲がりくねっていて鋪装もされないままであった。これらの暗い路地にたまった汚物や上下水道が壊れたまま放置されていたという現実は、ギリシアの都市住民が公衆衛生にほとんど注意を払わなかったことを示している。衛生上の最低限度の基準をも無視したために、頻繁にペストが流行することとなった。
ペリクレスの黄金時代の文明の輝きはアクロポリスに、アゴラに、そしてアテネのはずれにある神殿や競技場に栄光をもたらしたものの、住居や衛生設備には反映されなかった。
↑デロス島の中規模ペリスタイルハウス。
入口の通路は守衛の詰所を通って列柱廊下の中庭に通じている。ここは
雨水を集めるために内側に傾斜した屋根があり、雨水は中庭につくられた貯水池に蓄えられた。食堂を含むほとんどの部屋が住宅の焦点となっている中庭へ向いている。水が貴重なため浴室は設けられていなかった。

ローマのアトリウムハウス
ローマの代表的な住居はドムスと呼ばれる個人住居だが、これはエトルリア様式とヘレニズム様式とを混合した性格を持っていた。エトルリアの住居は、
中央の広間と開放された天窓を持つ軸状のプランが特徴である。この天窓はかつての煙ぬきの穴が改造され、それがアトリウムという小さな中庭になったものと思われる。都市の人口が増加し、土地が不足するようになると、中庭は雨水だめの施設へと変化した。後のポンペイ、ヘルクラネウム、オスティアなどの都市には、雨水をためるための中庭が広く見られる。
↑↓エトルリア人の典型的な都市住居には、アトリウムを挟んだ入口の反対側にタブリヌムがある。これは当初は主寝室であったが、後には文書の保管や応接に用いられた。アトリウム奥の両側にはアーラ(登場図面後出)と呼ばれるアルコーブがあった。そしてタブリヌムの後ろ側へ行くと囲まれた庭がある。入口に始まり、アトリウムとタブリヌムを通って庭に終わるという軸線状の住宅では、すばらしい眺望が得られた。(クリックで上画像拡大表示)

←要塞都市ポンペイ
街路は完全に鋪装され、一段高い歩道を備えていた。計画的につくられており、貯水タンクや給水塔があり、下水処理システムが備えられていた。やはり異なる収入階層が隣り合って住んでいた。
↑画像クリックで北西地区部分拡大表示
ヘレニズム文化の影響により、ローマの都市住居は東洋文化の影響を受けたギリシアのペリスタイルハウスとエトルリアのアトリウムハウスとを混合した様式となった。
こうしてローマ後期に現れてくる都市住居は、
二つの中庭を持っており、小さい方はアトリウム、大きい方はペリスタイルと呼ばれていた。また、三つ目の外部空間である後庭を有するものも少なくなかった。アトリウムとその周りの部屋は住居のなかの公的な部分であるのに対し、ペリスタイルの付近は私的な領域となっていた。
外観は単純、内部は壮麗。壁にはフレスコ画、床はモザイク細工か大理石敷、天状の梁はしばしば金色に塗られた。
玄関の前の街路から引っ込んだ場所はベスティブリウムと呼ばれていた。玄関にある木製の
正面扉は特に重要で、たいてい飾り付けがしてあり、祝宴の日には灯火をともして花環で飾った。扉を開くと、ファウセスという玄関ホールがあり、アトリウムに続いている。アトリウムには家族用の祭壇が祀られ、噴水、彫像、花器などで飾られていた。小さな部屋(来客用寝室および奴隷部屋)と奥まったスペースがアトリウムを囲み、これらの部屋では入口のドアからのみ採光していた。アーラと呼ばれる奥まった場所は応接や談話の間であった。アトリウムの入口と反対側には、狭い通路とタブリヌムというカーテンで遮ることのできる開放的な応接室があり、アトリウムとペリスタイルをつないでいた。ペリスタイルの周りには、寝室、ソファのある食堂、談話のためのアーラ、居間、台所などが並んでいた。
←初期(B.C.4〜3世紀:まだペリスタイルのようなヘレニズムの影響がない)の都市住居の優れた例。
アトリウムはあるがペリスタイルはない。洞穴のように簡素な家で、木の梁で囲まれたアトリウムからわずかに採光。アトリウムには貯水槽がある。伝統どおりの軸線状の室配置構成。
←古い建物だが、後の改造で夏用の食堂やペリスタイルが付け加えられている。周囲に商店や借家をもっている例。
←この家にはタブリヌムがないため、アトリウムの構成が普通とは異なっている。また、アトリオルムと呼ばれる第ニの小さなアトリウムがある。ここは台所と召使の部屋のための中庭である。さらに北側には、小さなペリスタイルとエレガントな食堂がある。
←宮殿のような大邸宅。増改築されているが古典的な平面をもっている。
多くの店が並んでおり、その幾つかは、上階に住居部分があり、一戸の住居となっている。
タブリヌムの隣の狭い通路の向こうは住居の私的部分。
ペリスタイルの16本の列柱は2階のベランダを支えている。
奥の庭では野菜を栽培していた。
ローマ時代の住居は、性格的にもデザイン上でも東洋の都市住居と密接な関係にある。もちろん、ドムスはローマ時代の住居のうちごく一部に過ぎず、量的にはアパートのほうが断然多数を占めていた。
←バグダッドやチュニスのメジナの土地利用の特徴に似ている。ポンペイの通りは乗物の往来にも便利なように設計されているため、公共道路の面積が広くならざるを得ない。その結果建物の面積の割合が小さくなっている(中庭は同じ広さを保っている)。

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