古代ギリシアとイオニアの都市はB.C.900年から600年の間に発展した。例えばアテネは、B.C.8世紀にアッチカ地方を統一して後、都市として重要な存在になり、更に有能なペイシストラトス政権(B.C.572〜546)によって卓越した都市となり、ペリクレス時代(B.C.443〜429)に黄金期をむかえた。 マケドニア以前のギリシア文明は、都市と田園からなるポリスの発展と密接に関係している。ポリスでは都市とその周辺の田園とが政治的にも、社会経済的にも相互に依存し合っていた。“都市国家”という用語はこのポリスの意味を十分に表してはいず、学者のなかにはこの解釈に反対する者もいる。 ギリシアのポリスは都市成長のコントロールと領地拡大について独特な政策を持っていた。都市がある大きさに達すると、それ以上の発展は抑えられ、新しいポリスがつくられた。そのため、新しく形成された都市は親にあたる都市の植民地のようなものであった。この政策の基礎には、都市の人口規模とそれを取り巻く農地の食料生産能力との間の社会生態学的釣合いを維持するという考えがあったに違いない。ギリシアでは地力に限度があり、古代文明がつちかわれた肥沃な沖積地とは比ぶべくもない 同時に、この植民都市開発政策は、その副産物として、文明の基盤の一つとなる貿易、商業の拡大をもたらしたことも重要である。なかでもイオニア同盟の最も富裕な都市ミレトスは、拡大するギリシアの交易活動において重要な役割を果たし、ギリシア文明の独自性を形作る新しい考えや影響をもたらした。
ペリクレスが死亡(B.C.429)した後、ギリシアは低迷期に入りマケドニア期を迎えるまでは、新しい都市は全く建設されていない。アレクサンダー大王の遠征による新しい時代の始まりは、その後2世紀の間にたくさんの都市の建設をもたらした(ギリシアにおける都市計画の成熟)。ヘレニズム時代にギリシアの勢力範囲はアレクサンダー大王の征服の後をたどって拡大し、エジプト、メソポタミア、ペルシア、インドといった古代文明発祥の地3か処を含む地域に及んだ。マケドニア帝国の時代には多数の新都市が建設されたが、それらはいずれもミレトスのプランにならったものだった。イオニア海岸のプリエネやペルガモン、ナイル川の沖積平野上に建設されたアレクサンドリア、チグリス川沿いのセレウキア、パンジャブ地方のジェルーム川沿いのシルカップ、ベズビオ山麓のポンペイなどがヘレニズム時代の都市のなかでよく知られているが、地理的にも異なった地域を占めているこれらの都市の住居は、すべて内側に向いた中庭住居の形式を受け継いでいた。住居は規模が大きく、また装飾も少し多くなったものの、基本的にはギリシア時代初期の中庭住居にそっくりであった。
ローマ時代の都市における住居地区は、ローマ市も含めて、当初は東洋的な性質を持っていた。迷路のような路地と狭い道路からなる街路網で構成され、家々は極めて密集して建てられていた。家屋はアトリウムと呼ばれる中庭式住居で、簡素なファサードを持っていた。金持ちと貧乏人が、貴族と職人が、隣接して暮らしていた。 一般市民はこのような東洋的伝統を好んだが、都市にモニュメンタルな秩序を持込もうとしていた当時の支配者は、そうした傾向を受け入れなかった。64年にローマで大火災が発生すると、広範囲に及んで再建を行うよい機会がもたらされた。こうして、古代ギリシアに機嫌をもつ格子状の街路網と矩形のブロックを基本とした都市再開発が行われた。こうして建設された長方形の街区には、高層の安アパートが密集して建てられた。4世紀中ごろのローマにおいては、個人用の住宅は、1,797戸であったのに対し、アパートは46,662とうに及んだ。各アパートには平均5戸の住戸があり、少なくとも1戸に5〜6人が居住。6〜7階建てのものもあったが、いいかげんにつくられるために崩壊することもあった。アパートの1階には、たいていタベルナと呼ばれる店鋪があり、2階以上が住居となり、危険な部屋に下層民が住んでいた。こうしたアパートが発生した結果、街全体に色々な職業の人が入り混じって生活するという東洋的な伝統が、ローマから消えていった。黄金時代をむかえ、ローマは居大都市へと成長した。まさにメトロポリスであり、人口は100万人を超えていた。これだけの人口を抱えて、ローマ近郊で生産される食料だけでは足りず、多くを輸入に頼り、その貯蔵のための倉庫がテベレ川岸に建てられた。当然のことながら、交通渋滞も発生し、日中の馬車の通行禁止などの措置がとられた。大都市が膨張すると、当然に田園地帯が遠くなる。ローマでは中心部から周辺までの距離が長くなりすぎたのみでなく、都市均衡の田園地帯の大部分が金持ちや貴族の宮殿や夏の別荘で占有された。そのため、市内に公園を設けなければならなくなり、3世紀頃には数カ所の公有の公開緑地が設けられた。
ローマ文明は当時の人々が考えたように永遠に続くことはなく、帝国は5世紀に崩壊した。ローマ文明の名残は東洋のビザンチン帝国の首都であるコンスタンチノープルに伝えられ、そこで約千年にわたってローマの都市文明が栄えたといえる。しかし、ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパの他の地域には渾沌とした暗黒時代がもたらされ、中世都市が成立するまでの何世紀にもわたって都市文明の伝統は中断された。その断絶の間に、中庭をもち内に開かれた東洋的な都市住居の様式はほとんど忘れ去られ、わずかにキリスト教会における修道院や僧院の建築様式としてのみ生き残ったのである。
B.C.5世紀以降、都市部においてギリシア固有の広間型住宅(メガロン)は、東洋の中庭式都市住居をギリシアに適応させたペリスタイルハウスに次第にとって変わられていった。この新しい都市住居の中心となる空間は、何辺かを列柱で囲んだ中庭(ペリスタイル)である。中庭は主室を快適に保つため、住居の南側に設けられた。道路や隣家に接した中庭は組積造の壁で見えないようにされていた。大きな家になると二つ以上の中庭をもつこともあるが、通りから見た外観は一般に目立たない、質素で単純なデザインになっている。対して内部では、贅を尽くした富を誇示することができた。
奥の家庭用中庭は南面を除く三面に列柱をもつのが理想的で、南面する一辺は住居の主要部分であり、装飾された梁で区切られたポルチコがあった。このポルチコの奥行は幅の3分の2であった。 ポルチコの奥には女性の使う広い居間があり、またポルチコの左右にはタラモスとアムピタラモスと呼ばれる部屋があった。そして、列柱に沿って食堂や奴隷の部屋などが配置されていた。
オリュントスの街区は5戸の住居が2列にならんでおり、住居の各辺は1辺が18m強の正方形である。おそらくは排水路であったと思われる狭い路地が家並みを2つに分けている。