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中世の要塞都市:ノルウェー人、スラブ人、マジャール人などがキリスト教に改宗したのに伴い、12世紀には異民族の侵入もかなりおさまり、暗黒時代から中世盛期と呼ばれる新しい時代へと次第に移っていった。森林、荒地、沼地が開墾され、農業技術の改良により農業生産は当時の必要とした水準をしのぐようになった。人口も増加し、再び社会的分業が可能となり、交易や商業が発展し、幾つかの古代ローマ都市が甦っただけでなく、川の合流点や交通路の交流点などに新しく都市が育っていった。このようにして10世紀初めまでに歩いて1日くらいの距離(約24Km)をおいて、町や都市が農村地に現れ、それぞれの周辺農村のための市場になり、農村と都市の共存的な関係が発達した。
中世都市の急増に伴い、12,13世紀のヨーロッパで新しい労働の概念が生まれた。従来、アジアやギリシア・ローマの世界では都市化は常に奴隷の労働力を伴うものであった。しかし、新しい中世市民である商人や職人は、封建制度の土壌から勝ち得た前例のない法律によって守られる自由人であり、特権を持つ人々であった。これらの新しい都市住民のほとんどは、通常の身分が暗黒時代において唯一の自由人であった。その当時、都市の住民が新しく手に入れた自由を大切にし、最も重要なものと考えたことは当然である。また、多くの市民が、農奴制の束縛から農民を開放することを積極的に求めたことも当然であろう。幾つかの都市は人口の増加を求めるため、「何人も366日の間、町の中で罪を犯さず、身分を明かさず、また農奴として扱われずに暮らせば、必然的に自由となり、コミューンの法律や権力の保護を受けるであろう」と宣言し、農民を自由人として招いた(中世の多くの都市住民は都市外に農地を所有しており、耕作しながら家族で都市的な仕事にも従事していたと思われる)。 |
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しかし、戦乱の時代において権力と武力なしで自由を保証することはできなかった。封建領主は軍事力を握り続けており、その行使をためらわなかった。そのうえ異民族による新たな略奪の心配もあった。そのため、門と防御塔をもつ城壁とそれを取り囲んでいる深い堀は、高くそびえ立つゴシック式教会や中心部にそびえる大聖堂とともに中世都市の目印になった。城壁は古代でも用いられていたが、中世都市市民は防御的建築形態をさらに発達させた。 |
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12世紀にハンガリー王は、異民族が侵入する恐れの大きかった南トランシルバニア地方(現ルーマニア)への移住を奨励した。西ヨーロッパからここへ移ってきた人々はサクソン人と呼ばれ、その定住地は防御を中心に考えて造られており、今日でもその痕跡を認めることができる。 |
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サクソン人の都市は重要な商業や地方政治の場となったが、多くの要塞化した村々が点在する農村地域に囲まれていなければ生存できなかった。両者は本質的に共存関係にあった。 |
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サクソン人の都市の独特な特徴は「教会城郭(church castle)にある。それは常に都市の中心に位置し、しばしば小高い丘の上にあった。教会城郭は第2の防御ラインとして機能する点では古代都市の城塞に似ているが、それ自体が都市のミニチュアである点が異なっていた。都市と同じく塔や稜堡、城門塔を持つ防御壁で囲まれ、都市内の都市を形成し、内側には教会、学校、司祭館、さらに共同体の貯蔵庫や、敵が第1の防御ラインを破って都市内に侵入した緊急時に、避難のために使われる住宅などもあった。教会自体も第3の最後の要塞として建てられており、包囲された場合に備え、内部にはよく井戸があった。 |
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←中世の典型的な都市。 また、中世都市は、農業地帯が終わり、都市が始まる明確な境界を持っている。塔門を通って都市に入ると、突然変化するのである。 |
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中世の都市の規模:比較的大きなネルトリンゲン(↑)でも63ha、交易で栄えたドブロブニク(↓)は湿地の埋め立てなどを行い拡張された後で16haである。これは典型的なアメリカの高速道路のクローバー型立体交差の面積と等しい。 |
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この広さの中に約2,000戸の住宅があり、約5,000人が住み、26の教会と礼拝堂、一つのユダヤ教会、一つの回教寺院、二つの修道院と一つの女子修道院、一つの大学、多くの店、作業場、レストラン、一つの屋内劇場と二つの野外劇上、博物館、宮殿、市役所、税関、造幣局、穀物倉庫、活気ある港がある。また、幾つかの広場、広い中央通り、歩行者道路と小路のネットワークがある。 |
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ホルンブルクハウスはもともとは伝統的な切妻家屋であったが、17世紀の改造の結果、現在の屋根を持つようになった。 |
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バウマイスターハウス:前面に奥行のあるホールを持つ建物があり、浅い中庭を持つ切妻式の都市住宅の古典的な例。 |
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←ソールズベリ(英)の中世住宅。商店街においては間口が重要であったため、中世の敷地はたいてい間口が狭く奥行が深いものであった。 |
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←ソールズベリ(英)の中世住宅。ハーフティンバー(真壁)の切妻住宅。 |
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中世において、大きな住宅は様々な機能を果たしており、後の時代と比較すると、居住者の全生活を支えていたと言える。住宅は天候に対する「避難所」であり、侵入者に対する「砦」であり、また時には育児の場となり学校となり病院となり、宗教活動を行う場となることさえあった。 |
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←靴屋の仕事場と住まいが住宅の前部にあり、後部には農業に関係する付属的な建物がある。 |
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17世紀末のオスロの家庭(ブルン家、下図)に見る、現代の生活習慣との違い。 |
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中世の家々の日常生活はかなり類似していたものの、住宅の間取りや構造はそれぞれの地域特性を反映していた。それには気候とかかわるもののほかに、西洋の都市文明の出現に先立つ時代に起原を持つ伝統に由来するものがある。 |
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←地域の伝統に由来する典型例として、ホール型都市住宅がある。イギリス特有のもので、ホールまたは主要な部屋が、1階から屋根まで吹抜けになっている。 |
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←極めて狭い敷地におけるホール型住宅の典型例。 敷地が狭い場合、ホールは街路に直角に造られた。1階の店鋪は道路より少し高く、地下は半地下となっており、共に店鋪として貸し出されていた。 |
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←街路に面した部分が店鋪で、その裏や上層に住居部分がある住宅は、ヨーロッパ各地で見られた。 |
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ハーフティンバー構造の街路側の上層部の張り出しは、その下を歩く歩行者を風雨から保護した。こうした風雨を防ぐ歩道がさらに発達し、ヨーロッパの各地で見られる絵画的なアーケード付きの住宅になった。 |
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←アーケードのある中世の店鋪付住宅。 |
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一般に、アーケードのある建物は堂々としており、裕福な市民が住んでいた。しかし、シレジア地方のヒルシュベルク、シェーンベルクゲルリッツなどの小都市では、アーケードを持つ建物の幅があまりにも狭いため、上層を支えるアーチが一つで十分である例(↓)が見られる。自治体で特定の建築形態を支持しなかったが、市民が自発的に協力して、市場の立つ広場の周りに統一あるアーケード付き住宅を建てていることは興味深い。 |
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↑間口の狭いアーケード付き住宅。店はないが、アーケード部分を売り場にしていた。入口を入ると大きなホールがあり、そこから広い階段が2階のディーレと呼ばれる2階分の高さを持つ部屋へ通じている。ディーレは住宅の中心であり、イギリスの中世住宅に見られる「ホール」に類似している。2階の通りに面した部屋は応接室で、庭に面した部屋(居間)は台所と家族用の部屋であったと思われる。 |
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←二つのアーチをもつアーケード付き住宅。 |
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↓ヨーロッパ大陸のアーケード付き住宅に似ているが、独特な形態を持つ店鋪付き住宅が、ローマ時代の廃虚の上に建てられたイギリスのチェスターで見られる。 |
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↑レッチェ・ハウスはザ・ロウズの典型例である。間口の狭い木造の建物で細い通路は、2階にもあり部屋をつないでいる。こうした建物の地下室は次第に店鋪に改造され、今日では、ザ・ロウズは店が2段に重なったものになっている。これはもともと中世のものであるが、このように地面のレベルより高い歩道は、車と人の動きを垂直に分離するという現代的な計画の考え方の有効性を示すものである。 |
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これまでに見てきた中世の例は、箇々の建物が点在して残されているのではなく、建築群としてそれらが建てられた時のままの姿で並んで残っている。屋内の改装や外部の比較的小さな改装は行なわれたものの、ベルんのケスラーガッセ、ヒルシュベルくのマーケット・スクエア、ゲルリッツのオールド・マーケット、チェスターのザ・ロウズ等に建ち並ぶ住宅は、中世後期そのままの姿を示している。 |
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