ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 3西洋の都市住居」、彰国社、1985年
中世
中世の要塞都市:ノルウェー人、スラブ人、マジャール人などがキリスト教に改宗したのに伴い、12世紀には異民族の侵入もかなりおさまり、暗黒時代から中世盛期と呼ばれる新しい時代へと次第に移っていった。森林、荒地、沼地が開墾され、農業技術の改良により農業生産は当時の必要とした水準をしのぐようになった。人口も増加し、再び社会的分業が可能となり、交易や商業が発展し、幾つかの古代ローマ都市が甦っただけでなく、川の合流点や交通路の交流点などに新しく都市が育っていった。このようにして10世紀初めまでに歩いて1日くらいの距離(約24Km)をおいて、町や都市が農村地に現れ、それぞれの周辺農村のための市場になり、農村と都市の共存的な関係が発達した。

中世都市の急増に伴い、12,13世紀のヨーロッパで新しい労働の概念が生まれた従来、アジアやギリシア・ローマの世界では都市化は常に奴隷の労働力を伴うものであった。しかし、新しい中世市民である商人や職人は、封建制度の土壌から勝ち得た前例のない法律によって守られる自由人であり、特権を持つ人々であった。これらの新しい都市住民のほとんどは、通常の身分が暗黒時代において唯一の自由人であった。その当時、都市の住民が新しく手に入れた自由を大切にし、最も重要なものと考えたことは当然である。また、多くの市民が、農奴制の束縛から農民を開放することを積極的に求めたことも当然であろう。幾つかの都市は人口の増加を求めるため、「何人も366日の間、町の中で罪を犯さず、身分を明かさず、また農奴として扱われずに暮らせば、必然的に自由となり、コミューンの法律や権力の保護を受けるであろう」と宣言し、農民を自由人として招いた(中世の多くの都市住民は都市外に農地を所有しており、耕作しながら家族で都市的な仕事にも従事していたと思われる)。

しかし、戦乱の時代において権力と武力なしで自由を保証することはできなかった。封建領主は軍事力を握り続けており、その行使をためらわなかった。そのうえ異民族による新たな略奪の心配もあった。そのため、門と防御塔をもつ城壁とそれを取り囲んでいる深い堀は、高くそびえ立つゴシック式教会や中心部にそびえる大聖堂とともに中世都市の目印になった。城壁は古代でも用いられていたが、中世都市市民は防御的建築形態をさらに発達させた。


12世紀にハンガリー王は、異民族が侵入する恐れの大きかった南トランシルバニア地方(現ルーマニア)への移住を奨励した。西ヨーロッパからここへ移ってきた人々はサクソン人と呼ばれ、その定住地は防御を中心に考えて造られており、今日でもその痕跡を認めることができる。
メジャシを初めとするサクソン人の都市は、要所に稜堡や塔をもった防御壁に囲まれ、分割して特定のギルドに守られている。内部の街路網は中世に典型的な細く曲がったもので、そこへ入るにはギルドのメンバーが守っている塔を通る必要があった。

サクソン人の都市は重要な商業や地方政治の場となったが、多くの要塞化した村々が点在する農村地域に囲まれていなければ生存できなかった。両者は本質的に共存関係にあった。

サクソン人の都市の独特な特徴は「教会城郭(church castle)にある。それは常に都市の中心に位置し、しばしば小高い丘の上にあった。教会城郭は第2の防御ラインとして機能する点では古代都市の城塞に似ているが、それ自体が都市のミニチュアである点が異なっていた。都市と同じく塔や稜堡、城門塔を持つ防御壁で囲まれ、都市内の都市を形成し、内側には教会、学校、司祭館、さらに共同体の貯蔵庫や、敵が第1の防御ラインを破って都市内に侵入した緊急時に、避難のために使われる住宅などもあった。教会自体も第3の最後の要塞として建てられており、包囲された場合に備え、内部にはよく井戸があった。


←中世の典型的な都市。
中心にあるのは教会と市役所。中心の広場から5本の不規則な道路が放射状に5つの市門へと続いていた。これらの放射状の街路がふくらんで広場を造り、そこに市が立った。
拡張前の旧市の防御壁跡が環状道路になっている。
旧市の直径は430mで、拡張後は900m(面積63ha)であり、このように大きな中世都市でも、
徒歩数分で田園地帯へ行くことが出来た

また、中世都市は、農業地帯が終わり、都市が始まる明確な境界を持っている。塔門を通って都市に入ると、突然変化するのである。

中世の都市の規模:比較的大きなネルトリンゲン(↑)でも63ha、交易で栄えたドブロブニク(↓)は湿地の埋め立てなどを行い拡張された後で16haである。これは典型的なアメリカの高速道路のクローバー型立体交差の面積と等しい。

この広さの中に約2,000戸の住宅があり、約5,000人が住み、26の教会と礼拝堂、一つのユダヤ教会、一つの回教寺院、二つの修道院と一つの女子修道院、一つの大学、多くの店、作業場、レストラン、一つの屋内劇場と二つの野外劇上、博物館、宮殿、市役所、税関、造幣局、穀物倉庫、活気ある港がある。また、幾つかの広場、広い中央通り、歩行者道路と小路のネットワークがある。
空間に無駄がなく、隅々まで貴重で考慮されている。この都市には崇高さや華やかさが欠けているが、至る所に人間的スケールと簡素な美しさが見られるのである。


ホルンブルクハウスはもともとは伝統的な切妻家屋であったが、17世紀の改造の結果、現在の屋根を持つようになった。
1階はホールが入口の機能を持っており、ここを通って乗物や人が背後の中庭へ行く。表の建物2階以上は家族の居住部分で、2階から中庭を囲む回廊へ入り、そこから中庭の様子を見ることが出来た。
中庭を囲んだ建物には馬小屋などの付随的な施設があり、2階には召使の部屋がある。
物理的には東洋の中庭に類似しているが、中世ドイツの住宅の
中庭は戸外の生活空間ではなく、召使が家事労働を行う場であり、機能的には農家の庭に似ている主要な部屋は中庭ではなく通りに面している点を見ても、東洋の中庭住宅との違いは明らかである。


バウマイスターハウス:前面に奥行のあるホールを持つ建物があり、浅い中庭を持つ切妻式の都市住宅の古典的な例。
広い1階のホールは、建物中央に前面に接した壁が造られたために狭くなっているが、その他の点では典型的な中世市民住宅の姿を表している。入口にあるあげぶたを開けると地階に通じており、2階へは8角形の螺旋階段で行く。
公的な部屋は通りに面しており、独立性のある広く奥行の深い2階ホールは、家族の部屋として種々の目的に使われた。2階ホールは中庭の3方に沿っている回廊へもつながる。
奥の建物の1階には
馬屋などの付属施設があり、その隅に便所があった。


←ソールズベリ(英)の中世住宅。商店街においては間口が重要であったため、中世の敷地はたいてい間口が狭く奥行が深いものであった。

←ソールズベリ(英)の中世住宅。ハーフティンバー(真壁)の切妻住宅。
木造の家屋の上階はよく張り出された。建築のスペースが限られていることへの対応だけでなく、森林の減少のために長くまっすぐな材を得るのが難しくなり、短い材を重ねるため、結合部分が非常に弱くなるが、その場合張り出し構造の方が強く、片持ち梁となるため梁の許容荷重が増すということが分かったためである。この結果、建物の上階の大きさが増すという傾向が生じ、16世紀末までには、イギリスの他の多くの都市でも、大部分の建物は上部の大きいものになった。


中世において、大きな住宅は様々な機能を果たしており、後の時代と比較すると、居住者の全生活を支えていたと言える。住宅は天候に対する「避難所」であり、侵入者に対する「」であり、また時には育児の場となり学校となり病院となり、宗教活動を行う場となることさえあった。
仕事を行う場としても重要で、職人の作業場や商人の店として使われた。このように歴史上長い期間にわたり、都市市民にとって住まいと仕事場は相容れないものではなく、むしろ補完的なものであり、両者は長年にわたり調和を保って発展してきた。これは、ヨーロッパの農村において、「家屋敷」という言葉と「農場」という言葉がほぼ同義語であったことに類似している。実際、多くの都市住民は農地も持っており、自分の職業に従事するとともに耕作を行っていた。

←靴屋の仕事場と住まいが住宅の前部にあり、後部には農業に関係する付属的な建物がある。

17世紀末のオスロの家庭(ブルン家、下図)に見る、現代の生活習慣との違い。
家族数が多い。家族と仕事場の雇い人3人、2人の女中の計15人が一緒に住んでいた。日常的に大勢での食事がなされていた。
自給自足的生活。食料を頻繁に店で買うことはなく、季節ごとに蓄えられ、また祭りや市のときに大量に購入された。例えば小麦粉は次の収穫までの1年を通じて持ち続けるよう、袋に入れて蓄えられた。肉も数か月持つように、屠殺した際に十分準備し、塩漬けや薫製にした。これらの結果、貯蔵のための広い部屋が必要となり、住宅の重要な部分となった。
開放度。中世の家族は実に開放的で、家族以外の構成員を含むことが多く、全員で行う昼食時の会話は、若者にとっては一種の教育であった。また、たとえば両親は一つのベッドに3人の最も幼い子供とともに寝ていた。残りの10代の5人の息子と娘は2階の寝室でベッドを共有していた。個室はもちろん、個人のベッドもなかったのである。
ほとんど個人的所有物を持っておらず、家の中の家庭用品は少なく、居間を除くと家の中にほとんど家具がなかった。
・早春から晩秋にかけ、かなりの時間を広々とした
田園で過ごし、また、家族でよく馬と荷馬車に乗って自分達の畑へ行き、その田舎の納屋の屋根裏で一夜を過ごすこともあった。


中世の家々の日常生活はかなり類似していたものの、住宅の間取りや構造はそれぞれの地域特性を反映していた。それには気候とかかわるもののほかに、西洋の都市文明の出現に先立つ時代に起原を持つ伝統に由来するものがある。

地域の伝統に由来する典型例として、ホール型都市住宅がある。イギリス特有のもので、ホールまたは主要な部屋が、1階から屋根まで吹抜けになっている。
タックリーズ・イン(14世紀)では、街路に面して店鋪と地下室(酒場)があり、背後にホールと住宅部分がある。

←極めて狭い敷地におけるホール型住宅の典型例。

敷地が狭い場合、ホールは街路に直角に造られた。1階の店鋪は道路より少し高く、地下は半地下となっており、共に店鋪として貸し出されていた。

←街路に面した部分が店鋪で、その裏や上層に住居部分がある住宅は、ヨーロッパ各地で見られた。


ハーフティンバー構造の街路側の上層部の張り出しは、その下を歩く歩行者を風雨から保護した。こうした風雨を防ぐ歩道がさらに発達し、ヨーロッパの各地で見られる絵画的なアーケード付きの住宅になった。

アーケードのある中世の店鋪付住宅。
アーチ形式の柱が2階以上の組石造の壁を支えている。アーケード部は隣と連続する丸天井で、買物客を雨や日差しから守っている。
アーケードに面して二つの店鋪があり、その間に住宅へ通じる廊下があり、奥の螺旋階段に続いている。入口右側の店鋪はもとは入口ホールの一部分で、後世に付け加えられたものである。

一般に、アーケードのある建物は堂々としており、裕福な市民が住んでいた。しかし、シレジア地方のヒルシュベルク、シェーンベルクゲルリッツなどの小都市では、アーケードを持つ建物の幅があまりにも狭いため、上層を支えるアーチが一つで十分である例(↓)が見られる。自治体で特定の建築形態を支持しなかったが、市民が自発的に協力して、市場の立つ広場の周りに統一あるアーケード付き住宅を建てていることは興味深い。

↑間口の狭いアーケード付き住宅。店はないが、アーケード部分を売り場にしていた。入口を入ると大きなホールがあり、そこから広い階段が2階のディーレと呼ばれる2階分の高さを持つ部屋へ通じている。ディーレは住宅の中心であり、イギリスの中世住宅に見られる「ホール」に類似している。2階の通りに面した部屋は応接室で、庭に面した部屋(居間)は台所と家族用の部屋であったと思われる。

←二つのアーチをもつアーケード付き住宅。
2階の家族用の部屋は中庭に面している。この部屋には大きな炉があり、調理も行われていた。そこから幅の狭い吹きさらしの廊下を裏方向へ行くと、倉庫として使われていた小さな建物がある。

↓ヨーロッパ大陸のアーケード付き住宅に似ているが、独特な形態を持つ店鋪付き住宅が、ローマ時代の廃虚の上に建てられたイギリスのチェスターで見られる。
この独特な住宅はザ・ロウズ(The Rows)と呼ばれており、丸天井を持つがっしりした土台に載った
歩道と店および住居が、2階のレベルにあるというのが特徴である。通りに沿ってずっと続いた2階レベルの歩道が店と住居をつないでいる。この歩道へは、交差点の付近などにある公共の階段で上がるようになっている。

↑レッチェ・ハウスはザ・ロウズの典型例である。間口の狭い木造の建物で細い通路は、2階にもあり部屋をつないでいる。こうした建物の地下室は次第に店鋪に改造され、今日では、ザ・ロウズ店が2段に重なったものになっている。これはもともと中世のものであるが、このように地面のレベルより高い歩道は、車と人の動きを垂直に分離するという現代的な計画の考え方の有効性を示すものである。


これまでに見てきた中世の例は、箇々の建物が点在して残されているのではなく、建築群としてそれらが建てられた時のままの姿で並んで残っている。屋内の改装や外部の比較的小さな改装は行なわれたものの、ベルんのケスラーガッセ、ヒルシュベルくのマーケット・スクエア、ゲルリッツのオールド・マーケット、チェスターのザ・ロウズ等に建ち並ぶ住宅は、中世後期そのままの姿を示している。

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