ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 3西洋の都市住居」、彰国社、1985年
産業革命
産業革命は非常に重要で大きな影響を歴史に与えている。それは突然生じたものでも急激なものでもないが、たゆまない工業化の進展は社会に巨大な影響を与えた。

最初に産業革命を経験したのはイギリスである。それは、18世紀において国際的な工業経済への条件ー政治の安定、国内取り引きの自由、新大陸との貿易、豊富な石炭、良好な気候や地理的位置ーを備えた唯一の国だったからである。イギリスでは産業革命に先行して農業革命が行なわれている。囲い込み運動によって農用地が拡大し、農耕技術の発展も相まって農業生産力が高まり、余剰生産物の輸送のために交通がよく発達していた。

産業革命の初期における動力源は河川の流水だった。このため、大半の新型工場は川の堤防に沿って石と木で造られた。規模はそれほど大きくなく、周囲の建築物とも調和していたので、工場のそばに済むことは嫌われなかったばかりでなく有利と考えられることも少なくなかった。通勤の利便と、心地よい川の堤防が近いからである。工業化の初期の段階では、住宅と商店および工場は互いに両立し、調和した町を形成していた。

この時代の労働者の住宅は、それまでの農業社会での小さな農家によく似ていたが、田舎から都市への移住により食料を得る菜園を持てなくなり、賃金のみに依存して生活するようになったことは、産業革命による大きな変化だと言える。

水車に代って石炭が動力源となったことによって産業革命は第二段階に入り、それに伴って工場の立地も変化した。炭坑からの石炭の輸送の便や労働力の豊富を理由に用地が選定された。蒸気の利用に伴い、建物はレンガと鉄で建てられるようになり、大量生産のための大きな空間を持った工場が建設されていった。住宅に関しては、大量生産の装飾物が細部に用いられる程度で、従来とほとんど変わらなかった。都市は、農村地域からの人口流入があまりに大きかったため、都市はその成長をコントロールすることも、適した住宅を供給することもできなかった。こうして、工業化と都市化に伴って人口の密集したスラムが形成されていったのである。

もちろん、スラムは産業革命以前にも存在した。しかし規模が小さく、工業都市のように悲惨な問題はほとんど生じていなかった。というのは、以前は町の中心からでも簡単に田園地帯へ行くことが出来、スラムの生活もそれほど厳しく思えなかったからである。ところが工業の発達につれて、人々は工場で働くために農村を後にして、仕事に便利な工場の近くに住まざるを得なかった。こうして、工場とその廃棄物が堆積した灰色の空間ーそこはかつては緑の田園だったーに居住地が拡大していったのである。

こうしてイギリスでは工業都市がかつてない人口増加に見舞われた。例えば、バーミンガムの人口は1801年に7万1千人であったが、1851年には26万5千人、1901年には76万人と増加しており、他の工業都市や炭田地帯でも同様に人口の急増が見られた。イギリス全体の人口も産業革命期に大きく伸びており、1750年の600万人から1800年に900万人、1850年に1800万人と増加し、1900年までには4000万人に達した。増大した人口の大部分は都市に吸収されている。

人口の急増に対する対応は遅れ、水不足や死亡率の上昇(1840年での平均寿命は29才)、伝染病の流行等、至る所で恐るべき事態がもたらされた。特に1832年のコレラ大流行はすべての階層に及び、都市の居住環境の改善にも目が向けられるようになってきた。こうして19世紀の中期以降になると、産業革命が都市と労働者の居住状況に与えた深刻な影響に注目する革命家が現れることとなる。

1842年に提出されたエドウィン・チャドウィックの『労働者階級の衛生状態とその改善手法に関する報告書』は、住居環境に関する法律改革のもととなった。また、アシュリー卿らが設立した労働者階級の状況を改善するための協会は当時の水準を遥かに超えるモデル住宅を建設し、賃家の模範を示した。後にナショナル・トラストの設立者の一人となったオクタビア・ヒルも、拡大する悲惨なスラムに注目し、ロンドンのメリールボーンのスラム地区でモデル住宅の建設に尽力した。

19世紀の末までには、産業革命が必然的に労働者の居住状況を悪化させるものではなく、農村よりかえってよい条件を実現できることもあることが明らかになってきた。ニュー・ラナーク、ソールテア、ボーンヴィル、ポート・サンライトでは実際にそうであった。例えばキャドベリー一家が1879年に建設を開始したボーンヴィルでは、街路の美しさに意が払われており、しかもキャドベリーの工場で働く者以外でも低廉な家賃で居住することができた。ボーンヴィルは都市と農村との結婚を目指していた社会改革家に影響を与えたに違いない。ただ、郊外やニュータウンでの労働者住宅建設にのみ注意が注がれ、現存する都市の住宅問題の解決を放棄する傾向が見られた点は残念である。


背割り長家、安アパート、条例住宅

イギリスでは17、18世紀に中産階層の住宅建設が発展しており、19世紀の労働者住宅にもその手法が適用されたが、重要な変更が一つ行なわれている。それはかつての入念な建設の代わりに行なわれた安普請である。

←土地を節約しようという圧力は、ついには背割り長家まで生み出した。一般に、1階に居間と流し、2階に寝室が2つあった。換気は不十分で、水道は共同、便所も非水洗の共同便所であった(これらの施設が共同であったことは、おそらく最大の欠点であり、居住者の健康モラルに好ましくない影響を与えることになった)。

19世紀末には背割り長家が工業都市の労働者住宅のかなりの部分を占めるようになっており、20世紀に入っても事態は好転しなかった。

19世紀には単身者の住宅をどうするかということも問題となった。産業革命以前は、徒弟や手伝いなどの単身者は雇い主の住宅に住み込むのが普通だった。しかし、大規模工場の出現により若い人々が群れをなして都市へ集まった。雇い主が住居を与えることはまれであったので、単身者は他人の住居に同居するのが一般であり、住宅はますます過密になっていった。
単身者の需要に対して、幾つかの慈善団体は下宿用建物の建設を行なった。
←例えばアシュリー卿の協会は1846年に男子用の下宿用建物の建設に着手し、翌年には完成させている。ターンは、この建物を次のように描写している。「1階にはコモンルームと管理人用住宅があり、地階には調理と洗濯を行なう施設がある。2階以上は個室になっており、中央に階段があり、両側に、奥行2.7m、間口が1.36〜1.5mの室が並んでいる。各階には25人に対して洗面台が六つと水洗便所が一つある。裏側に窓を付けることができなかったため、半数の個室では採光や自然換気が行えないという計画上の弱点に対しては、善意ある人々から、敷地に対して室を詰め込みすぎているという批判も寄せられている。」
19世紀中頃には労働者世帯のためのモデルアパートが初めて建設されている(↑)。ロンドンのブルームズベリー地区のストリザム通りとジョージ通りが交わる角地を入手したアシュリー卿の協会は、ヘンリー・ロバーツに家族用モデル住宅の設計を依頼した。この建物は1850年に完成したが、5階建てで広い中庭を囲んだU字型、通りから入る広い階段があり、そこから中庭を見下ろせる吹きさらしの廊下を通って各住戸へ到達する。典型的な住戸では、狭い玄関ホールから居間へとつながり、流し、トイレと小さな寝室は中庭側に開口を持ち、居間と主寝室は街路に面していた。各種の設備が各戸に付いており、当時の水準から考えると非常に恵まれたものであった。この建物はその後のアパート建築のモデルとなったが、19世紀にはこれと同水準の建物が建てられるのは稀であった。
19世紀後半になると行政が低水準の住宅の建設を制限するようになった。1855年に公害防止疫病防止に関する法律が成立したのを受けて、住居の衛生に関するモデル条例が定められた。
中小建設業者はこれに違反しないため、裏に狭い庭を挟んで屋外便所のある2階建ての板状住宅を建設。
ある意味で、これらの「条例住宅」はジョージ王朝時代のタウンハウスをモデルにしていると言えよう。しかし建物の規模ははるかに小さく(←ノッチンガムの住居の間口は3.7m、バースの平均的タウンハウスは6.7m)、わびしいファサードが樹木もない通りに並んでいる光景は単調であり、ジョージ王朝時代の緑化されたスクエアやクレッセントとは対照をなしている。条例住宅は丈夫に造られており、今日でも工業都市に多く残存している。

19世紀末のロンドンは420万人の人口を有し、他の都市を足下にも寄せつけない大都市であった。これに次ぐのがNYで、周辺を含めると270万人であったが、人口増加の速さはロンドンをしのいでいた。
膨大な数の移民の流入と人口の自然増に対応して住宅を供給するのは、極めて大きな仕事であり、良心を欠いた建設業者や家主を生むこととなった。NYでは、当初は空家となった大邸宅が貸家に改造されている。気品のある邸宅の広い部屋が、採光や換気のことを考えずに分割され、1軒の住宅が数戸に分けられた。次の段階では、より利益を上げ、増大する住宅需要に対応するために、以前は庭園であった敷地の奥にも建物を建設、従前の1家族用の住宅が、悪評高い「裏家」も含む10戸のアパートに生まれ変わるのも珍しいことではなかった。

とはいえ大邸宅が改造される例は多くはなく、土地所有者やその代理人たちは新しい形式の住宅の建設を始め、アパートの時代が到来することとなった。北アメリカで建てられたこれらの初期の中層アパートの大半は暗く、換気が悪く、熱がこもりやすかったが、こうした建築は行政が規制を始めるまで続けられた。また、一戸に数家族が住むことも珍しくなかった
。かつてチェリー通りにあったゴウサム・コートは特に評判が悪く、1896年に取り壊されるまで病気と犯罪の温床となった。換気が悪く、大半の部屋は狭い通路に面しているだけで、便所は通路の地下にあり、採光と換気は路面にはめられた鉄格子から行なわれていた。

しかしNYの保険委員会と1867年の共同住宅法の規制により、従来のような窓のない居室は建設できなくなり、奥行方向に部屋が3つある住戸では、3番目の部屋には煙突状の光庭に面して狭い窓が造られた。
←NYでは1880年代と90年代に、光庭をもつ平面形からダンベル住宅と呼ばれるアパートが盛んに建てられたが、1901年に定められたNY市共同住宅法により、これらの建設はようやくストップすることとなった。
←1890年代に入ると「公園式アパート」が現れてくる。その主な特徴は棟に囲まれて広いオープンスペースがあることと、建物の奥行方向には部屋が2つしか並んでいない点にある。
公園式アパートを提案したのはNYの建築家フィリップ・ストークスである。彼の祖父はNY貧民状況改善協会の設立者の一人として有名で、この団体は大量の移民の流入によって生じた悲惨な居住状態の改善に尽力したが、効果を上げることはできなかった。そのようなひどい状況にあって、公園式アパートは希望の灯であったが、大半の者にとっては実現できない望みであったこともまた事実である。

タウンハウスは19世紀においても中産階層の都市住宅として用いられたが、住戸の規模も小さくなって行き、人気は衰えていった。この傾向ははじめイギリスで見られたが、後に他国へも広がっていった。
イギリスではすでに18世紀末に、裕福な者が
環境の悪化していく都市のタウンハウスを手放し、田園地帯へと転出する例が現れている。その落ち着き先は「ヴィラ」と呼ばれる田園風の邸宅である(←)。
イギリス人の夢であったヴィラは、他国の都市居住者の間にも広まっていった。この夢の実現が最も容易なのは、土地の豊富な北米大陸である。

著名な造園家のダウニング曰く「田園がほほえみかける緑の芝生と趣のある一戸建て住宅で飾り立てられたときに、秩序と文化が確立される」→19世紀のアメリカ人の好みに深い影響を与える。

彼の住宅はエリザベス・スタイルで造られ、居間の手前には鉢いっぱいの花、入念に刈り込まれた芝生、下に並んだ住宅は見えずにハドソン川を借景にするように、低木が注意深く植えられた

汚染され、犯罪も多い都会を離れて健康な環境を得たいと思っていた都市の居住者は、容易にダウニングの考えを受け入れた。もちろん、少なくとも世帯主は仕事の都合で都市とのかかわりを断てないため、住宅は都市の職場に通勤できる範囲に求められた。こうして都市の周辺を郊外住宅地が取り囲む状況が現出したが、その影響は19世紀の間は全く問題とされなかった。しかし今世紀に入るとその影響は拡大、アメリカの大都市は深刻な問題を抱えることとなった。


19世紀の末になると中産階層の世帯が召使を雇うことはますます困難となり、ケイタリング・フラットが誕生した。これは後にアメリカのアパートメント・ホテルの原形ともなるもので、ちょうどホテルが提供するようなサービスを共同で利用できるアパートである。設備の整ったいろいろな規模の住戸があり、一定の料金を支払えば各戸で各種のサービスを受けることが出来た。客間やビリヤードなどその他の共同室の使用料金は家賃に含まれていた。ロンドンのキャンプデン・ハウス・チェインバーズ(↑)は典型的なケイタリング・フラットである。

イギリスの中産階層が1軒家に住むのを理想としていたのに対し、ヨーロッパのブルジョアの家族は高級アパートに住むことに十分満足していた。アパートに対する建築規制は比較的厳しく、労働者向けの安アパートよりも良いレベルを確保できていた。例えばアパートの高さはパリで20m、ブダペストでは25mに制限されていた。当時の建物では天井が高かったので、6階を超える建物はほとんどなかった。1階は店鋪になっていることが多かったが、これは土地の利用効率を上げ、買物の距離を縮め、通りを活性化するものであった。土地利用の混合は中世からあったものだが、パリをはじめとする19世紀ヨーロッパの都市の中心部に形を変えて存続し、その特徴となっている
←パリの高級アパート

1階には1〜2の店鋪、管理人のいる入念に装飾された玄関ロビー、大小2つの住戸、明るい大階段とエレベーターがある。
2階以上には各階に2戸の広い住戸があり、主な部屋はすべて道路に面し、ヨーロッパ大陸風に廊下を通らずに部屋どうしを行き来できる(必要な場合には廊下を用いて各部屋を独立させることも可能)。大半の寝室には化粧室が隣接。トイレ等の小さな付属室の採光と換気は光庭で行なう。また中庭に面して小さい寝室、台所、浴室等があった。各戸にはサービス用の階段も置かれており、屋根裏の召使部屋に通じていた。

19世紀のパリの高級アパートの外観は、他のヨーロッパの都市同様、宮殿のように飾られており、後の時代のアパートの単調で退屈なファサードとは著しい対照をなしている。もちろん、これは中産階層の高級アパートについてだけ言えることで、兵営式長家とか貸バラックなどと呼ばれていたパリやベルリンの労働者向け安アパートは産業革命後のどの都市にも見られるような退屈なファサードとみすぼらしい施設しか有していなかった。

パリの賑やかな大通りに面した典型的なアパートは幾つかの機能を兼ね備えていた。1階にはたいてい店鋪と管理人住宅があり、背面や中2階に仕事場があることもあった。2階以上は裕福な人の住戸で、屋根裏には召使部屋があったが、学生や芸術家に貸されることも多かった。
このような
土地利用の混合は、今世紀(20世紀)の指導的な建築家や都市計画家の大半から望ましくないものとされている。例えば、ジークフリード・ギーディオンは、パリのアパート建築は工業社会においては厳しく分離すべきものを人為的に集めており、住居、職場、そして交通を混ぜ合わすことは不合理だと述べている。今日でも大半の建築家や都市計画家が同じ見地に立っているが、都市地域における混合した土地利用を支持する新しい兆候も現れている都市住宅は他の多くの都市機能と両立することが可能であり、用途の結合によって実際に利益を得ることもできる。住居を含んだ多機能建物は、社会的、経済的な利点をも有しており、活発で刺激的な居住環境と都市の若返りを約束するものでもあると言えるだろう。

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