ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 3西洋の都市住居」、彰国社、1985年
ルネサンス期
14世紀にヨーロッパを襲ったペストの大流行は、その全域に大きな爪痕を残した。都市・農村の別なく、富者・貧者の別なく、人口の3分の1から半分が犠牲になった。中世的な制度は混乱に陥るものが多く、例えば教会は免罪符を売り、無学な者を聖職者に任命したりもした。このような社会の混乱に絶望した市民は、教会や民主的な政府を拒絶し、強力な独裁者の出現を望んだほどである。
14世紀には
中世の防御システムも廃れていった火薬が発達した結果、中世的な要塞都市は意味を失った。島国であったイギリスを除く大半のヨーロッパの都市は、新たな防御線建設のために広い土地を当てなければならず、また新たな要塞を建設するには莫大な費用が必要であったため、都市の拡大はますます困難となり、多くの都市では建物が上に伸び、過密化していった。例えばストラスブールでは、1200〜1450年の間に4回の市域拡張が行なわれたが、1580年から1870年の間は人口が3倍になったにも拘わらず、一度も拡張を行なっていない。

15世紀は、芸術や文学の分野で古典の影響が復活し、同時に近代科学の礎となることとなった「ルネサンス」の時代である。ルネサンス期には、要塞や王侯の居住地を除くと新しい都市はほとんど建設されていないが、既存都市の改造や拡張がかなり始められている。当時の計画は、(1)視界のきく広くまっすぐな大通り、(2)古めかしい建物の建ち並んだ格子状の街区構成、(3)記念碑や市場、交通のために広場を置くのはもちろん、一般の住宅地にも多くの広場を計画すること。

支配者の権力の強大なところでは、これらのルネサンス期の原理が実施へと移された。狭く、曲がった街路網で構成され、複雑だが同時に親しみやすかった中世の街並の中に、広くまっすぐな通りが建設されたのである。こうして中世都市が有していた人間的なスケールは次第に失われ、記念碑的で印象を重視する尺度にとって変わられたのである。

都市空間の変容は美的な観点だけから行なわれたわけではない。16世紀には車輪のある乗物が普及したので、主要街路の改善が必要であったし、軍事面からの要求、さらに中世の気ままな個人主義を思い起こさせるような街並をなくしたいという絶対君主の欲求もあった。例えばパリに中世の狭い通りや袋小路が残っていたことは、ナポレオン3世が地区全体を破壊して大通りを建設することを正当化する理由となった。中世以降の都市においては、大通りが都市のシンボルとなり、その軸線に人々の関心が引き寄せられることとなり、その軸線の焦点に置かれた宮殿、大建築物や記念碑が、人々に君主の権威を意識させることとなったのである。その典型的な例はヴェルサイユとカールスルーエである。

中世都市に大通りを貫通させようという大胆な計画は常に実現したわけではない。例えば1666年のロンドン大火災の後に、地区を秩序付けようとして提案されたクリストファー・レンの復興計画は実現されなかった。一方、オースマンのパリ改造計画は実現している。彼が建設したサン・ミシェル通りは、中世以来ほぼ独立した地区として発達し、人々の生活のにおいの染み付いていたラテン地区の中央を貫通するものであったが、このように全く正当化することができない行為も行なわれたのである。

中世以降においては、宮廷の生活が次第に都市やその市民に影響を及ぼすようになっていったが、特に大きかったのは中産階層への影響である。宮殿での生活様式が各地に広まり、宮廷における礼儀作法のあり方が一般市民の間に普及することさえあった。

ルネサンス期には、都市において初めて住む場所と働く場所との分離が始まった。このような分離が最初に生じたのは裕福な都市居住者であったが、次第に都市の全市民へと及んでいった。このことはその後の都市の発展に深い影響をもたらした。なぜなら、女性は外の社会と関係する機会を失い、逆に男性は家庭内の事柄との関係を失った結果、社会を構成する基本的な単位である家族が変質することになったからである。家庭生活と職業生活との分離の影響は家庭内だけにとどまらない。ルイス・マンフォードが、市民意識や隣人間系が薄れていった原因をこの点に求めたのも、あながち誇張とは言えないだろう。

市民の各階層は、自分のことだけを考えるようになっていった。特に中産階層では、都市的な生活から離れて宮殿のようなファサードをもつ住宅群の中の一戸にひっそりと住む傾向が強まった。宮殿に住むことができないのならば、次善の策は全体として宮殿のような外観を持つ家並みの中の一部に居住することだ、というわけでなる。美しい切妻屋根をもつ自治市民の建物に象徴される中世の個人主義は過去のものとなり、印象的な古典のオーダーを用いて宮殿のように飾った建物に住むという新しい生活が発生した。

絶対君主と特権階級の外見的な強さと表面上の華麗さは、あまり長くは続かなかった。社会的平等と民主的政治を求める中産階層が増加し、権力の座に着くべく定められていたのである。アーサー・コーンによれば、フランス革命の直前には、聖職者や貴族といった特権階級が13万人だったのに対し、ブルジョアと職人は計50万人ほどを数え、全く政治力をもたない農民や労働者はフランス全土で2400万人にも達していた。フランスでもイギリスでも、絶対主義に満足せず、それと闘ったのはブルジョアであり、ついには封建制を終わらせ、交易を自由化するという勝利をおさめたのである。


17世紀の初めにフランスのアンリ「世はフランス初の広場をもつ住宅地プラス・ロワイヤル(今日のプラス・ド・ヴォージュ)を計画した。これは、貴族の住居を宮殿のように見せ、パリの中心部にも宮廷の壮麗さをつくり出そうとするものであった。四角形の広場(スクエア)を囲んで、1階レベルはアーケードで連なるが、急傾斜の屋根で各戸を区別できる建物が38戸並んでいた。そのファサードは統一されており、赤レンガによる組積造で、窓はすべて左右対称に置かれていた。広場は初めは馬に乗って剣や槍の試合をするのに用いられ、次にはルイォ世の彫像が置かれた記念的性格の広場となり、後には狭い道に囲まれたフェンスのある修景的な公園となった。
広場のある住宅地をつくるということは斬新で画期的なことであった。まもなく貴族にも同じことをするものが現れたが、これは大規模な建設不動産業者のはしりだと言える。
広場のある住宅地を初めてロンドンに紹介したのは、4代目のベッドフォード伯爵である。
今日ではコベント・ガーデンと呼ばれている四角形の大きな広場を囲み、2辺には古典的なファサードを持つアーケードのある住宅建築が、残の2辺には広場へ通じる2本の主要道路から見えるところにそれぞれ教会とベッドフォード邸の庭園が置かれた。各住戸のファサードは統一されていたが、幅や奥行はそれぞれ異なるものだった。
この計画は直ちに成功をおさめた。貴族や富裕な人々は荘厳な家並みの中に住むことを非常に当世風なことだと考え、ベッドフォード公爵(この間に公爵に叙されていた)が1671年にコベント・ガーデンで野菜市を毎日開く権利を得た後も住み続けた。しかしこの結果、朝早く荷馬車に籠を積んだ人々が田舎から集まり、午前中は騒がしく野菜があふれ、広場の性格は一変した。しかも、19世紀初期に市場に屋根が掛けられるまでは広場は見苦しい屋台や小屋で充たされ、治安も悪かった。
四角い広場(スクエア)に面した住居に住むことが当世風だと考えられるようになって以降、多くの実例が続いて現れ、ロンドン以外の諸都市へも普及していった。その中で最も成功したのはバース(↓)である。

18世紀の初頭に、アン女王は主治医のすすめでバースに滞在し、ローマ時代に有名な温泉町であったバースは再び活気づいた。建築家ジョン・ウッド広場のある住宅地を互いに組み合わせて建設する壮大な計画に着手。まず1727年にクイーンズ・スクエアを計画。広場の北側に主要な建物があり、東と西の建物が両翼を形成している宮殿を念頭においてデザインした。もっとも、この宮殿のような建物の趣は、入念にデザインされた北側の建物を広場の南側から眺める時にしか味わうことができなかった。
クイーンズ・スクエアの中央の四角い庭園は、4つの広い門を持ち、砂利の小径で区切られた4つの部分には花の咲く樹木が植えられ、中央の池にはオベリスクが建てられた。

クイーンズ・スクエアの開発に成功したウッドは、続いてキングズ・サーカス(↑)に取りかかった。ここでは広場が円形のためサーカスと呼ばれているが、広場の周りに33戸の住宅が並び、等間隔に3か所の入口が設けられた。住宅は3階建てで、各戸は古典的なオーダーを持った3列の列柱が上下に並んだファサードで計画された。

ウッドはキングズ・サーカス建設中に死亡したが、息子のジョン・ウッド世が仕事を引き継ぎ完成させた。彼は続いて1767年にロイヤル・クレッセント(↑)の建設を開始、8年後に完成させている。半楕円形をした芝生広場の凹んだ線に沿って30戸の住宅が並んだ光景は印象的であり、まるで宮殿のようで、裕福な者が住宅に対して持っている欲望をこれほどよく充たすものは他にはなかったであろう。ファサードは統一されており、装飾の施されていない高い柱脚の上に2階分の高さの巨大なイオニア式の円柱が114本並んでいた。壮大な景観と恵まれた自然を持つこの巨大な建造物に居住している者は王の一族ではなかったが、その環境はまるで宮殿のようであった。
18世紀末から19世紀初頭にかけては、ロイヤル・クレッセントを模して
三日月型のクレッセントを建てる例が多く、スクエアをしのぐほどの人気であった。バースにおいてもカムデン・クレッセント、ランズダウン・クレッセント、サマーセット・プレイス、ウィンドクーム・クレッセントなどがあり、他の都市へも影響を与えた。特にジョン・パーマーのデザインしたランズダウン・クレッセントは南東に傾斜した斜面の等高線に従って、中央の建物は凹の、両翼の建物は凸の曲線で構成されており、注目に値する。ここでは土地の持つ自然の特性がよく考慮されており、住居の採光や日照は損なわれておらず、しかも美しい都市環境が実現されているのである。

ロンドンではスクエアの広場は当初は鋪装されていたが、18世紀末頃にはバース同様に柵で囲まれた緑地を持つようになってきた。
ロンドンではこの時期、スクエアやクレッセントなどが互いに調和を保って建設されていくが、その最も上手くいった例がブルームズベリー地区で、様々な形の広場が集積されて地区が形成されている。
19世紀末までは、ユーストン・ロードとオックスフォード・ストリートにあるブルームズベリー地区への入口には門が設けられており、地区内に用事のない者は立ち入ることができなかった。このような方式は、中世にイギリス各地の教会の境内で行なわれていたものに似ている面があり、また地区への出入りが制限されている点では、イスラム都市のマハラーにも類似している。
ファサードが整然と統一されているのは居住者の生活程度および価値観の類似の反映である。
住宅の裏側の馬小屋やサービス用の建物は、人目につくことも少ないので、各居住者の必要に応じて建てられた。
前面建物と後ろの建物との間には小さな
中庭があり、戸外でする必要のある家事等に用いられた。
ベッドフォード・スクエアに面した住宅には私的な庭がない代わりに、居住者は広場中央の美しい庭園を利用することができた。自然の風景に似せて造園するというイギリスの伝統に従い、ここには芝生や樹木が植えられており、フェンスで囲まれ、そのの鍵を持つ家族のみが利用することが出来た。居住者はここで戸外のレクリエーションを楽しめるが、皆の目に触れることになるため、家族の戸外レクリエーションが公的な事柄となっている。東洋では住宅の庭は周囲からの視線の届かない私的な小規模戸外スペースであり、そこでの家族のレクリエーションは完全に私的に行なわれる。ところが、ロンドンでは住宅の中庭は単なるサービスのための空間であり、スクエアにある半ば公的な庭園が住宅の庭の役割を担っている。

タウンハウス

西洋では個人生活と社会生活とが分離した結果、専用住宅が発生した。マンフォードも指摘しているように、住居を見ただけでは居住者がどうして収入を得ているかが分からなくなった。こうして、職業にかかわらず中産階層の誰でもが居住するタウンハウスという建物タイプが現れた。
タウンハウスは中世都市の棟続きの連続住宅から仕事に関する部分ー中世住宅にとっては本質的な部分ーを除いたものである。スクエアやクレッセントの開発に伴って、大量に建設されるようになっていった。タウンハウスは建設業者によって分譲か賃貸されるので、人々にアピールする必要があり、デザインや材料に十分な配慮がなされた。

←ロンドンの典型的タウンハウス
玄関から数段上がった所が1階レベル。道路側に居間、後側中庭に面して食堂がある。
居間は家族や親しい友人のためだけではなく、客の応接室としても使われた。食堂が1階にあるのは、地階のサービス機能に近いため。
地階は一部が半地下になっている。当時のタウンハウスには、中庭のレベルが道路面よりもかなり低い住宅が多いが、これは長い年月の間に道路面が鋪装等で高くなったためである。歩道の端と建物の間には狭い階段のあるドライエリアがある。
2階の道路側の客間は主に男性が使い、後部の客間は喫煙禁止で婦人が使用した。
3階には主人の寝室や子供部屋があり、ドーマー窓のある屋根裏部屋は召使の部屋であった
↑中産階層を対象としたタウンハウスは多くの西ヨーロッパ諸国にも見ることができるが、イギリスのものとは異なり、共同の修景された広場を持たず、代わりに敷地の奥に小さな庭を有していた(そこには馬小屋も路地もない)。ヨーロッパのタウンハウス開発はロンドンに比べて小規模で、ブルームズベリー地区のような調和や連続性を見い出すことはできない。また召使部屋が1階に置かれたため、イギリスのタウンハウスを特徴づけているドライエリアは不必要であった。
←ニューヨークにタウンハウスが建てられはじめたのも18世紀末から19世紀初頭である。
ロンドンと異なるのは、地階が地盤面からあまり下がっていないので1階玄関へのかなりの階段があったことである。

アメリカの大半の都市で採用された格子状の道路網と間口が狭く奥行の深い敷地割はタウンハウス建設にうってつけだった。土地を効率的に使おうという欲求の高まりにより、タウンハウスは次第に狭く深くなっていった。前面の居間と背面の食堂との間の日の差さない部屋は中産階層の住宅では音楽室などとして用いられたが、労働者の住宅では寝室として使われた。この手法は後の低所得者用住宅にも用いられている。

←アメリカではタウンハウスが労働者の住宅にも用いられた。移民の大量流入によって住宅不足が生じ、地主が住宅市場に参入していわゆる「ダンベル住宅」が出来るまでの間は、大部分の労働者はこれらのタウンハウスに居住していたのである。

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