ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 3西洋の都市住居」、彰国社、1985年
はじめに
ここ1,000年の間に発達した西洋の都市文明は、それに先立つ約5,000年に及ぶ東洋の都市文明の影響を受けている。それを方向付けた主要な力はキリスト教であり、もう一つは、ギリシア・ローマ文明を通して間接的に西洋世界へと到達した東洋の影響である。

ローマ帝国はヨーロッパ大陸の大部分を支配し、その支配地域、特に都市にぬぐうことのできない痕跡を残した。しかし、ローマ帝国の崩壊後、その廃虚から成長したにもかかわらず、明らかにローマ文明とも東洋文明とも異なる性格をもつ新しい西洋文明が、多くの場合に起こった。その原因の一部は、ローマ帝国の崩壊により、ヨーロッパ大陸における都市の連続的な発展が突然停止したことにある。その後、西洋では何世紀も渾沌とした暗黒時代が続き、都市はほとんど消滅してしまった。人口移動に伴う大混乱は都市の定住生活を根絶させ、都市住民は異民族の侵入を避けて遠くの農村に逃れた。しかし、すべての都市が根絶したわけではなかった。都市共同体の断片がそこここに残存し、それらを核として比較的速いテンポで新しい都市社会が再生していったのである。

東洋の都市遺産からの最も大きな断絶は、住宅の分野に現れた。内部の秩序性によって特徴づけられるギリシア・ローマの住宅の伝統は忘れ去られ、東洋の都市住宅の特徴の多くが西洋の都市住宅で見られなくなった。その多くは、気候的な理由のために見捨てられたと言える。北方の地域で中庭や回廊式中庭のような内部のオープンスペースは、冬の戸外生活にとって実際無意味であり、光を得るためにより開放的な大きい窓を使った。もちろん、気候の影響に基づくこうした考え方だけで、5,000年を超える都市住宅の伝統からの急激な断絶を説明し尽くすことはできないだろう。

宗教建築の場合は伝統が重んじられた。回廊式中庭は、北方・南方を問わずいつの時代でも基本的に受け継がれた。唯一の変更は、回廊の位置が教会の本体に対して東西軸になったことである。さらに、北方の場合、回廊は教会の外陣の南側に必ず置かれた。このように、修道院建築では気候による影響は穏やかなものであった。

初期の西洋都市住宅には、農村の伝統がはっきりと見られる。切妻式の都市住宅はその近隣の農村で見られる農家と同じものであることが、これを明確に示している。

中世の、高まる敵意に満ちた時代には防御が主な関心事であった。その結果、中世前期の独特の居住形態である塔住宅が生まれた。それは、銃眼のような細い窓や狭間のあるパラペットを持ち、時には石落しさえ持っており、まさに要塞であった。入口は通常2階にあり、はしごを使った。このような独特の居住形態は気候からきたものではなく、防御への考慮から生まれたものであり、ローマの住居形態とは全く反対のものである。ある意味で両者とも本質的には防御的なものであるが、安全へのアプローチは全く反対であった。

中世後期の都市住宅にも中庭が見られるが、その外部空間としての機能は東洋とは異なり、サービスヤードとして使われている。

18世紀には都市住宅に関する大きな変化が現れた。それは住まいと仕事場の分離である。この住まいと仕事場の分離の影響は、住宅内にとどまらず近隣生活にも及んでいる。都市は次第に住宅、商業、娯楽、工業地区に区分され、効率の良いバランスのとれた混合的土地利用は、専門的土地利用へと変化した。

産業革命による社会と環境の退廃も西洋の都市住宅に影響を及ぼした。都市があまりにも早く成長したので、基礎的な都市サービスを住民に保証できなかった。19世紀末には、大部分の都市住民の生活水準はそれまでの西洋における都市発展史上最も低いものとなった。都市での生活状態があまりにひどくなったので、多くの都市や住宅の改革者はその解決を新天地に求めた。こうした考え方は既存の都市問題を避けており、結果的に富裕層が“郊外”へ逃げることを認めることになっている。

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