ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 3西洋の都市住居」、彰国社、1985年
暗黒時代
ローマ帝国の衰退に従い、西洋では暗黒時代が始まり、東洋に由来するローマの都市遺産は徐々に終息するに至った。都市生活や都市文明の衰退要因は多くあるが、最も主なものは非ローマ人がかつてない増加を見せ、ローマ人が減少したことによる。教養あるローマ人は、戦争、革命、ペストなどによって減少した。道徳の退廃も帝国解体の要因となった。貧しい人々は貧困が増すにつれて幼児殺しをするようになり、一方、指導者や富豪が不道徳や残虐の限りを尽くした。更に、独裁政治によって政治が衰退し、怠惰、買収、放慢がローマの元老院の一部で行われた。
こうした状況のなかで、新しい宗教であるキリスト教が普及。謙遜と質素を奨励していたため、貧困になればなるほど信者の数が増えていった。
崩壊しつつあったローマ帝国に最終的な打撃を与えたのは、5世紀におけるゲンセリック率いるバンダル族がイタリアに侵入し、ローマを略奪したことである。そのときまでにかつてローマが支配していたガリア(ゴール)、スペイン、北アフリカ地方の国家も独立していた。イタリアにおいても自民族の王が誕生し、ローマ帝国は終わりを告げた。

異民族の侵入はヨーロッパの文明を何世紀にもわたって後退させてしまった。「経済的に見ると、それは再農村化を意味した。彼らは農耕、放牧、狩猟あるいは戦争にあけくれ、都市を繁栄させてきた経済的仕組みを知らなかった。異民族の勝利によって西洋文明における都市の性格は7世紀の期間にわたって停止してしまったのである」とW.デュランは述べている。

しかし、すべてのローマ都市が破壊されたわけではなかった。例えば東ローマ帝国におけるビザンチン都市は、少なくともしばらくは破壊を免れた。そのため暗黒時代においてもコンスタンチノープルは栄え、学問と貿易の中心となり、ローマの遺産はギリシア正教によって修正されながらもしばらくの間生き残った。他にも、トレドは西ゴート族の侵入後、彼らの首都となって生き残り、712年のムーア人による征服の後は、コルドバには及ばぬものの、アラブの首都となった。トレドはムーア人の占領中も学問と芸術の中心として栄えた。ムーア人は都市のローマ的性格を次第にイスラム風のものへと変えていった。例えば道路網は、東洋的な特徴である狭い路地と広場で構成されるようになり、それは1085年のキリスト教軍団による再征服の後でも残されていた。
ローマ人の植民地であったコルドバにおいても同様な変化が見られた。571年に西ゴート族により占領され、教会の管区とされた。711年にはムーア人が略奪をし、部分的に都市を破壊した。しかし、その後数十年の間にムーア人はそこをウマイヤ王朝のカリフの居住地に相応しいものとして再建した。そして暗黒時代であった10世紀中期にアブドアルラーマン3世のもとでその栄華を極めた。当時のヨーロッパでコルドバをしのぐ都市はコンスタンチノープルだけであった。しかし1010年の異民族侵入によってコルドバの衰退が始まり、次の世紀の間に多くの住人がグラナダへと逃れていった。

トレドコルドバグラナダやその他多くのイベリア半島の都市はパレルモなどイタリア南部の都市と同じく、アラブの占領下には置かれたが、アラブ人が追い出されるまで東洋の都市生活の伝統を守り続けた。これらの都市に見る東洋的影響の具体的な痕跡、特に都市住宅が中庭などの内部に向って造られる点はムーア人が去ってからも存続しており、今日までその形態が残っている。これらの都市は、暗黒時代以降にヨーロッパに出現した都市とは著しく異なっている


ムーア人やサラセンによる占領を免れたヨーロッパの各地方では、異民族の侵入により都市生活を消滅または停止させられた。大都市は廃虚と化し、わずかに生き残った市民はたった一つのローマ建築の中で寄り集まるだけのこともあった。

南フランスのアルルは、ゴール人の管轄県であり、270年に侵略されたが、もう一度ローマ人によって再建され元の姿に飾り立てられた。ローマ帝国滅亡後、西ゴート族に占領され、さらに730年にはサラセン人によって侵略され、破壊された。わずかに生き残った住民は円形競技場の防御壁の中へと避難した。25,000人を収容できるこのローマの大建築は中世の要塞都市となっていった。60のアーケードから構成される下部の二つの階は二つの出入口を除いて、壁として塗り込められ、住宅に改造された。3階部分のアーケードは壊され、そこから得た材料は要塞の完成と闘技場の部分に教会や住宅を建設するのに使われた。四つの防御塔を持つこのコンパクトな要塞の住みかは、その後何世紀にもわたって生き残り、都市の一部として存続していたが、19世紀の初めには中世に付加されたものが取り除かれ、ローマ時代の遺跡として復元された。

ローマ、フィレンツェ、ルッカ、パリなどの円形競技場もやはり住宅に改造され、いまでも容易に地図上に見つけることができる。また、円形競技場のほかにも、スプリトのように皇帝のために造られた要塞化された宮殿(アスパラトス)なども侵略された人々の避難場所となった。アスパラトスの遺跡は中世都市へと改造され、スプリトの街は建設された。

暗黒時代に現れた都市は、必ずしもローマの建築や都市の廃虚上に造られたとは限らない。ベネチアラグーザ(現ドブロブニク)などは、異民族の襲撃から避難した開拓者が自然的地形から近づくことが困難な地域に都市を創設した都市である。

ベネチア:フン族やランゴバート人に追われて大陸の都市から逃れてきた人々によって創設された。避難してきた人々はアドリア海の入江に逃れ小さな島の土着の猟師たちと入江に12の街区を設立した。その一つがリアルト島で、そこは結局、提督の所在地となり、ベネチア市となった。

ラグーザ(←):ダルマチア地方にある古代ギリシア・ローマ都市エピダウルムとサロナから逃げ出した市民が、7世紀中頃にラグーザという岩だらけの島に避難し、建設した都市。セルジオ山のふもとに位置し、それと海峡で隔てられており、小さな漁業集落があったと思われる。都市からの住民流入と共に、険しい島の岩壁に小さな都市が現れた。安全な天然の港に隣接し、敵の侵入を防ぐ険しい島(866〜867年の〜 ;ヶ月に及ぶサラセンの包囲にも耐えた)にあり、温暖な気候条件にも恵まれていた。陸と海との主要交易点近くに位置し、ラテン民族とスラブ民族、西方教会と東方教会、キリスト教徒とイスラム教徒が交流し、こうした交流から活発な貿易が起こり、その結果小規模ながら中世における重要な海の都市国家として1,000年の間ベネチアと競い合った。

中世都市の出現:ローマ帝国崩壊後、西欧における経済的基盤は再び主に農業となり商業は狭い範囲を対象としたものになった。耕地面積はローマ時代からほとんど増加しておらず、外国との交易がなくなった西欧では、自らの資源だけで生きていかなければならず、絶えず略奪的襲撃が行われる時代であった。
封建主義が起こったのはそのような状況からだった。農業経済に基づく無階級社会から農民と武士からなるニ階級社会となり、武士は後に敵の攻撃に対して保護を与える封建領主となった。
城塞都市:西ヨーロッパ一帯にかけ暗黒時代は戦争の時代だった。9世紀の初期から、サラセンやバイキングなどに対する防御として各所に城塞を備えた都市が現れた。通常、円形の壁で囲まれ、その外側に堀があり、領主の命を受けた騎士の守備隊がそれぞれの都市を守った。長く包囲された場合に備え、穀物倉と地下食料貯蔵庫が造られた。
農民は守備隊の生活を支え城塞を維持する労働力を提供、商人のような自由市民はおらず、またいかなる種類の自治的または組織された地方政治組織は存在しなかった。
それでも中世の城塞都市には職人や商人が保護を求めて集まり、壁の外側で小規模なコミュニティをつくることがよく許された。その結果、多くの城塞都市はその後の都市形成の核となっていった。

修道院:中世の暗黒時代において教会が絶対的な力を持っていたことは間違いない。それは日常生活の中心となったばかりでなく、分裂した世界の中で普遍性を与えてくれるものであった。その精神的なセンターはローマにあり、世界共通語となっていたラテン語が用いられた。さらに、宗教建築もローマの伝統を受け継いでいる。それゆえヨーロッパの礼拝堂のデザインはローマのバシリカをもととしており、柱廊を持つ中庭がいずれのキリスト教でも修道院の中心となった。
聖ベネデイクトゥスが6世紀初めに開始し、確立した修道院生活は、暗黒時代に多くの追従者を引きつけた。彼らの多くは貧民の出身であり、共同の宗教生活を過ごす兄弟として安全と平和を求めた。
そこでは、従順、貞節、質素の三つの誓いがなされたが、貧困の中で生き延びるため果てしない闘いを続けながら軍事的な労務や高い税にあえぐ農民の生活に比較すれば、それらは取り立てて大きな犠牲とは考えられていなかった。
修道院には丸天井を持つ柱廊に囲まれた四角い中庭があった。北方においては、高くそびえる塔が中庭に影を落さないように、教会は中庭の北側に配置された。南方では逆に中庭に影をつくるように南側に教会が配置されていた。修道士の人数が増えるにつれ、収容するための建物を拡大し、その結果、多くの修道院が防御壁で囲まれた小さな町へと発展していった。

聖職につく者と共に適当な数の職人や労務者がいた。さらに、「求められれば修道院の力の及ぶ範囲で施しやもてなしがなされた」(デュラン)ので、修道士よりも一般の人々が多くなることもあった。また、交易商人がよく修道院を訪れ、住民に品物を供給するとともに門外で市を開いた。市はほとんどの人が教会に集まる盛大なミサが行われるときに合わせて行われた。ドイツ語の“Messe”はミサと定期市の両方を意味している。

城塞都市と同じく、多くの修道院は後に中世都市へと成長していった。ローマ人により都市に適するとされた戦略上重要な場所は、修道院を建設するのにも好ましく、しかも都市の廃虚から建築材料を得ることができた。その結果、異教徒の都市や建物が城塞都市や修道院の基礎となり、それらが後に西欧キリスト社会における町や都市となっていったのである。


初期の中世都市初期の中世都市は「よく学問的に言われるような過去から継承されたものではなく、ローマ都市の廃虚に建てられることが多かったとはいえ、全く新しく創造されたものである」(クバッハ)。
中世都市の街路は狭く、不規則に曲がりくねり、そこここに不規則な形をした広場があり、その構成はかなり東洋の都市に近かった。また特定の階層が住む街区や通りを持つことも東洋の
マハラーに類似しており、教会など重要な建物へのアプローチが計画的でなく意外性がある点は、イスラム社会でのモスクのあり方に類似している。
このような類似性はあるものの、西洋の都市住宅のデザインは東洋のものと異なっている。西洋の住宅は
外部に開放的であり、規模、形態、建築材料は居住者の地位を反映し、当初から個性を強調していた。隣家との間に排水を流し、火災の延焼を防ぐためのすきまがあるため住宅の独立性がより強調された。確かに中世都市もある調和を保っているが、それは同じような材料を用いて間口が狭く奥行が深い敷地に切妻式住居が街路に連なることによってもたらされるものである。
住居の外部を重視するか内部を重視するかは、それぞれの社会性を反映しており、注目すべきことである。都市が小規模の間は外部を重視してもそれほどの影響は見られなかったが、後に都市が発展するにつれて望ましくない結果をもたらすようになり、この問題は今日でも未解決のままである。
初期の中世住宅中世初期の都市住宅の大部分はおそらく木造であり、そのため現在では残っていない。デザインは当時の農村住宅とわずかに違うだけであったと思われる。商人などの若干の例外を除き、ほとんどの都市住民は農村出身であった。11〜12世紀に建設され現在も残っている石造住宅は、街並を形成しているのではなく、点在している。それは、初期の都市住宅が独立した一戸建住宅であったこと(人口が少なかったため密集して建てる必要がなく、延焼を防ぐ建築技術のない状況であったため)と、そして今はなき木造住宅の間に点在していたためであると推測される。
現存する住居は切妻式住居塔住居の2タイプに区分される。

切妻式住居:←1400年代に建設された小規模な都市住居。まん中の壁によって前部と後部に分けられ、前部の地下には丸天井の地下室があり、街路から直接入るようになっている。1階前部は入口ホールと小部屋、後部は倉庫か仕事場だったと思われる。2階階段横に台所、前部は主要室である居室がある。窓には滅多にガラスがはめられず、普通は木製の鎧戸が備え付けられていた。

塔住居:塔住居は決して都市で生み出されたものではない。例えば、コーカサスの村々は11世紀以降アジアから侵入した異民族のルートに位置しており、これらの侵入によって苦悩を経験したに違いない。それゆえ、この地方の塔住居は、その地域に定住し、農業を営んでいる住居の生存のために発達したと見る方が合理的である。携帯式のテント住宅しか持っていなかった遊牧騎馬民族は、頑丈に造られた石の塔に驚いたに違いない。彼らは塔の高さに馴染めなかっただけでなく、戦闘中でも馬から降り、塔の上階へと続く狭く閉鎖的な階段を上ることを嫌がっただろう。実際、西ヨーロッパがタタール人に侵入された時、タタール人は高い要塞塔や教会の尖塔に登らなかったので、逃げて避難するのに比較的安全な場所であった。

←9、10世紀に出来た当初の塔住宅を建て替え、1250年頃に出来たと思われるケケンブルクと呼ばれる塔住宅(ドイツ)。
4階建ての塔の窓の形からロマネスク後期のものとわかる。
後から建て増しされた木造の3階建ての切妻屋根の部分は1500年頃のものである。
丸天井を持つ地下室へは、外部から直接入るようになっているが、この入口は1627年に出来たものなので、当初は内部に階段があったと思われる。

←コルシカの塔住宅。
傾斜地に建てられていて、1層目は倉庫としてのみ使用されていて、外部からのみ入ることができる。住宅への入口は2階にあり、そこには台所と炉がある。この炉は厚い壁の中に煙突がある古いタイプのもので、建物正面にある窓に似た開口部へ煙を出している。建物の各面に何対かの石落としと幾つかの銃眼を備えていた。突出した石落としからは、壁を登ろうとする敵に対して石、弾丸や溶けた松ヤニを落すことが出来た。

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