異民族の侵入はヨーロッパの文明を何世紀にもわたって後退させてしまった。「経済的に見ると、それは再農村化を意味した。彼らは農耕、放牧、狩猟あるいは戦争にあけくれ、都市を繁栄させてきた経済的仕組みを知らなかった。異民族の勝利によって西洋文明における都市の性格は7世紀の期間にわたって停止してしまったのである」とW.デュランは述べている。
しかし、すべてのローマ都市が破壊されたわけではなかった。例えば東ローマ帝国におけるビザンチン都市は、少なくともしばらくは破壊を免れた。そのため暗黒時代においてもコンスタンチノープルは栄え、学問と貿易の中心となり、ローマの遺産はギリシア正教によって修正されながらもしばらくの間生き残った。他にも、トレドは西ゴート族の侵入後、彼らの首都となって生き残り、712年のムーア人による征服の後は、コルドバには及ばぬものの、アラブの首都となった。トレドはムーア人の占領中も学問と芸術の中心として栄えた。ムーア人は都市のローマ的性格を次第にイスラム風のものへと変えていった。例えば道路網は、東洋的な特徴である狭い路地と広場で構成されるようになり、それは1085年のキリスト教軍団による再征服の後でも残されていた。 ローマ人の植民地であったコルドバにおいても同様な変化が見られた。571年に西ゴート族により占領され、教会の管区とされた。711年にはムーア人が略奪をし、部分的に都市を破壊した。しかし、その後数十年の間にムーア人はそこをウマイヤ王朝のカリフの居住地に相応しいものとして再建した。そして暗黒時代であった10世紀中期にアブドアルラーマン3世のもとでその栄華を極めた。当時のヨーロッパでコルドバをしのぐ都市はコンスタンチノープルだけであった。しかし1010年の異民族侵入によってコルドバの衰退が始まり、次の世紀の間に多くの住人がグラナダへと逃れていった。
トレド、コルドバ、グラナダやその他多くのイベリア半島の都市はパレルモなどイタリア南部の都市と同じく、アラブの占領下には置かれたが、アラブ人が追い出されるまで東洋の都市生活の伝統を守り続けた。これらの都市に見る東洋的影響の具体的な痕跡、特に都市住宅が中庭などの内部に向って造られる点はムーア人が去ってからも存続しており、今日までその形態が残っている。これらの都市は、暗黒時代以降にヨーロッパに出現した都市とは著しく異なっている。
ムーア人やサラセンによる占領を免れたヨーロッパの各地方では、異民族の侵入により都市生活を消滅または停止させられた。大都市は廃虚と化し、わずかに生き残った市民はたった一つのローマ建築の中で寄り集まるだけのこともあった。
南フランスのアルルは、ゴール人の管轄県であり、270年に侵略されたが、もう一度ローマ人によって再建され元の姿に飾り立てられた。ローマ帝国滅亡後、西ゴート族に占領され、さらに730年にはサラセン人によって侵略され、破壊された。わずかに生き残った住民は円形競技場の防御壁の中へと避難した。25,000人を収容できるこのローマの大建築は中世の要塞都市となっていった。60のアーケードから構成される下部の二つの階は二つの出入口を除いて、壁として塗り込められ、住宅に改造された。3階部分のアーケードは壊され、そこから得た材料は要塞の完成と闘技場の部分に教会や住宅を建設するのに使われた。四つの防御塔を持つこのコンパクトな要塞の住みかは、その後何世紀にもわたって生き残り、都市の一部として存続していたが、19世紀の初めには中世に付加されたものが取り除かれ、ローマ時代の遺跡として復元された。
ベネチア:フン族やランゴバート人に追われて大陸の都市から逃れてきた人々によって創設された。避難してきた人々はアドリア海の入江に逃れ小さな島の土着の猟師たちと入江に12の街区を設立した。その一つがリアルト島で、そこは結局、提督の所在地となり、ベネチア市となった。
聖職につく者と共に適当な数の職人や労務者がいた。さらに、「求められれば修道院の力の及ぶ範囲で施しやもてなしがなされた」(デュラン)ので、修道士よりも一般の人々が多くなることもあった。また、交易商人がよく修道院を訪れ、住民に品物を供給するとともに門外で市を開いた。市はほとんどの人が教会に集まる盛大なミサが行われるときに合わせて行われた。ドイツ語の“Messe”はミサと定期市の両方を意味している。
城塞都市と同じく、多くの修道院は後に中世都市へと成長していった。ローマ人により都市に適するとされた戦略上重要な場所は、修道院を建設するのにも好ましく、しかも都市の廃虚から建築材料を得ることができた。その結果、異教徒の都市や建物が城塞都市や修道院の基礎となり、それらが後に西欧キリスト社会における町や都市となっていったのである。
切妻式住居:←1400年代に建設された小規模な都市住居。まん中の壁によって前部と後部に分けられ、前部の地下には丸天井の地下室があり、街路から直接入るようになっている。1階前部は入口ホールと小部屋、後部は倉庫か仕事場だったと思われる。2階階段横に台所、前部は主要室である居室がある。窓には滅多にガラスがはめられず、普通は木製の鎧戸が備え付けられていた。
塔住居:塔住居は決して都市で生み出されたものではない。例えば、コーカサスの村々は11世紀以降アジアから侵入した異民族のルートに位置しており、これらの侵入によって苦悩を経験したに違いない。それゆえ、この地方の塔住居は、その地域に定住し、農業を営んでいる住居の生存のために発達したと見る方が合理的である。携帯式のテント住宅しか持っていなかった遊牧騎馬民族は、頑丈に造られた石の塔に驚いたに違いない。彼らは塔の高さに馴染めなかっただけでなく、戦闘中でも馬から降り、塔の上階へと続く狭く閉鎖的な階段を上ることを嫌がっただろう。実際、西ヨーロッパがタタール人に侵入された時、タタール人は高い要塞塔や教会の尖塔に登らなかったので、逃げて避難するのに比較的安全な場所であった。
←9、10世紀に出来た当初の塔住宅を建て替え、1250年頃に出来たと思われるケケンブルクと呼ばれる塔住宅(ドイツ)。 4階建ての塔の窓の形からロマネスク後期のものとわかる。 後から建て増しされた木造の3階建ての切妻屋根の部分は1500年頃のものである。 丸天井を持つ地下室へは、外部から直接入るようになっているが、この入口は1627年に出来たものなので、当初は内部に階段があったと思われる。
←コルシカの塔住宅。 傾斜地に建てられていて、1層目は倉庫としてのみ使用されていて、外部からのみ入ることができる。住宅への入口は2階にあり、そこには台所と炉がある。この炉は厚い壁の中に煙突がある古いタイプのもので、建物正面にある窓に似た開口部へ煙を出している。建物の各面に何対かの石落としと幾つかの銃眼を備えていた。突出した石落としからは、壁を登ろうとする敵に対して石、弾丸や溶けた松ヤニを落すことが出来た。