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※ 以下引用中の太字は原典の強調 ※ 以下引用中の( )内カタカナは原典のルビ ※ 以下引用中の赤字は引用者による強調(原典にはない強調) 建築は今日その初心を記憶していない。 |
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われらの時代の芸術は、選ばれた人の前ではそのところを得ている。芸術は通俗的なものではない。まして「贅沢な情婦」ではなおさらない。芸術は選ばれた人が指導力を養い育てる時のみ栄養として必要なのだ。芸術は本来高貴なものだ。(p87) 建築1 ローマの教訓 建築2 平面(プラン)の幻覚 |
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プランは内から外に向う。 一つの建物はシャボン玉のようなものだ。この泡はもし気圧が内部からよく規制されてよく平均していれば、完全に調和している。小アジアのブルッスにある緑のモスクは人間的な尺度の小さな扉から入る。ごく小さな玄関が、観賞に必要な尺度の変化の場として作用し、通ってきた道や敷地から来る尺度と、印象づけようとする尺度とを調整する。すると回教寺院の大きさを感じ、あなたの目は測定できる。大理石で真白な、光がいっぱいある広い空間に入る。その先にほとんど同じ寸法の第二の空間があるが、くらがりが充満していて、数段上っている(ミノールで繰り返し)。両側には、もっと小さい暗がりが二つある。ふりかえると、二つのごく小さな暗がりがある。光いっぱいのところと暗がりとのリズムがある。まるでかわいい扉と、大変ひろい入込み。そこでつかまってしまい、普通の尺度を失ってしまう。感覚的なリズム(光と立体)の支配下に入り、巧みな方法で、それ自体の世界に導かれ、語るべきことを語れる態勢になる。何という感動、何という信仰! これが動機となった意図である。考えの束は用いられた手段である。結果。ブルッスでもコンスタンチノープルの聖ショフィア寺院でも、イスタンブールのスレイマニエ寺院でも、これらの結果としての外がある。 結婚の家(カサ・デル・ノチエ)、ポンペイにて。やはり道路での精神を取り除ける玄関。そしてカベイディウム(控えの間(アトリウム))に入る。真中に四本の柱(四つの円筒)が、屋根の陰に向って一挙にのびる。力の感じと力強い手段。だが奥には柱廊をとおして輝く庭に、大らかな光の面としてひろがり、届き目立たせ、左に右に遠くおよび、大きな空間をなす。二つの間には、タブリウムが写真器のレンズのようにこの眺めを限定する。右と、左に、二つの小さなかげの空間。みなの雑踏の道、思いがけない絵画的な眺めが一ぱいの場所から、こうして一人の〈ローマ人の〉家に入ったのだ。威厳ある大きさ、秩序。立派な広がり、一人の〈ローマ人の〉ところにいるのだ。それらの部屋は何のためにあるのか? それは問題外だ。二〇世紀の後、歴史的な暗示なしに、建築が感じられる。それだのにこれはごく小さい家なのだ。(p141~142) |
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内部の建築的要素 真直な壁がある。広がる床がある。人または光の通る孔、出入口や窓がある。孔は明るくしたり、暗くしたりして、快活にしたり悲しくしたりする。壁は光で輝いていたり、かげの中に、またはかげになって、愉快にしたり、平静にさせたり、悲しくさせたりする。交響曲がここに汲上げられる。建築はあなたを愉快にしたり、平静にしたりする目的がある。壁を尊重してください。ポンペイの連中はこの壁に孔をあけない。彼らは壁を尊び光を愛する。光はもし壁が反射をしてくれるなら生気がある。古代人は壁をつくった。長くつづく壁、それをさらに長くしてつなげた。こうして建築的な感覚の基礎であり、生理的な感覚としての立体(ボリューム)をつくり出した。光は明確な意図をもって、その端で輝き、壁を照らす。光はその〈印象〉を外に向って円筒で(私は円柱といいたくない。これはいためられた言葉だ)列柱または柱でひろげる。床は一定に、凸凹なしにどこまでも出来るだけのびている。時に、ある印象を加えるために、床は一段高くなる。この外に内部の建築的な要素はない。光と壁、それを大きな面にくりひろげる壁と水平壁である床と。光の当る壁をつくるということは、内部の建築的な要素を構成することだ。残るは比例である。(p144) |
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秩序立て 軸線は人間自身のあるいは最初の表明かも知れない。それは人間のすべての行動の手段である。よちよち歩きの子供はある軸に向う。人生の嵐の中で闘う男は一つの軸を描いてゆく。軸は建築を秩序立てるものである。秩序立てるとは、仕事をはじめることである。建築はいくつかの軸の上に設定される。美術学校で用いられる軸は、建築の災害である。軸とは一つの目的に向っての行動の指針である。建築においては、軸は目的を持たねばならぬ。学校ではそのことを忘れ、いくつもの軸を無限、無定、無明、虚無に向わせ、目的がない星型に交わらせる。学校で用いる軸は一つの処方、一つの要領である。 秩序立てるということは、軸線の序列を定めること、すなわち目的群の序列、意図の序列を定めることだ。 したがって建築家は、軸に目的を課する。その目的とは、壁(密実、感覚的感情)または光、空間(感覚的感情)である。 現実には、軸は地面に示される如く空から見下ろすように察知できるものではない。人は地面に立って、前を向いて知るのである。目は遠くまで見る。そして乱されることなき客観、その向うの意図や意志までもすべてを見る。アクロポリスの軸は、ピレウスからペンテリコンまで、海から山まで行くのだ。軸に直角なプロポレウスからは、遠くの水平線に海がある。あなたのいるところの建築が印刻する方向とは直角な水平線があり、この正面を向いた感覚が重要だ。高貴な建築アクロポリスは、水平線までその効果を及ぼす。プロピレウスからは別の方向に、アテナの巨像を軸に、ペンテリコンを奥に。これは効果がある。そしてこの強烈な軸を外して、右にパルテノン、左にエレクテオンがあるので、それらの全体的な表情を四分の三まで〈見ることができる。〉建築ではすべてを軸の上にのせてはいけない。そうすれば、それだけたくさんの人々が同時に話しかけるのと同じだ。 ポンペイの市場(フォーラム)。秩序立てとは目的の序列化だ。意図の分類だ。フォーラムの平面は多くの軸を持っているが、美術学校では決して三等賞も貰えまい。星型になっていないから拒否されるだろう。このような平面を眺めるのも、このフォーラムの中を散歩するのも精神的な喜びだ。 さて悲劇の詩人の家の中、消化された芸術の洗練さ。すべては軸を持っているが、これらを一直線に結び合わすことは難かしい。軸線は意図の中にあるが、その設定から生れる荘重さは簡単な事物の上にも及び巧みにこれを目の錯角によって生かす(廊下、主通路など)。軸はここでは理論的なかわいたものではない。はっきりと描き出され、それぞれ異なっている主要な立体をつないでいる。悲劇の詩人の家を訪れるなら、すべてが秩序立っていることに気づかれるだろう。だがその感じは豊かである。軸に外れたところが巧みに生かされて立体の強さを増している。すなわち、床の鋪装の中心のモチーフは、部屋の中から奥にのばされている。入口の井戸は池の縁に片寄っている。奥の噴水は庭の隅にある。部屋の中心に物を置くことはしばしばその部屋を殺してしまうことがある。なぜならあなたが部屋の中心に立つこと、そこに立って軸線を見ることを妨げるからだ。広場の真中に立つ記念碑はしばしばその広場を殺しそれを囲む建物をも殺すーしばしば、だがいつでもとはいわない。その時々の条件によって、それぞれ理由のある場所だから。(P144〜149) |
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外部は常に内部である。 学校で、星型の軸線を引くとき学生たちは建物の前にやってきた鑑賞者が、この建物だけに感応し、その視線は、確実に、また、もっぱらこれら軸線に定められた重心のところに向けられて止まるものと想定している。人間の目は周囲を調べるために、終始回転し、また人間も右や左へ廻り、グルグル動く。すべてに関心を持ち、そこに関係する場全体の重心に引きつけられる。このことは周囲へ一挙に問題をひろげる。隣の家、遠く近くの山、高いまたは低い地平線、これらは巨大な量として、その量に比例した力で働きかける。見かけの容量と、実体の容量は刻々に評価され、知的に感じ取られる。容量の感じは直接的で、初原的である。あなたの建物は、一〇万立方メートルとしても、周囲にあるものは数百万立方メートルだ。これは勘定に入る。次に密度の感じがある。石ころや、木や、丘などは、密度的には、形の幾何学的な組み合わせよりは弱い。大理石は目に心に木より密にうつる等々の順がある。序列化がいつもある。 要約すれば建築的な景観では、敷地の要素はその容量として、その密度として、材料の質として、はっきり定まった、はっきり異なった感じを与えるもの(木材、大理石、樹木、芝生、青い水平線、遠近の海、空)として関与してくる。敷地の要素は、広間の壁のように「容量」の指数の力、その積層化や、材質などで粉飾した壁となり、とりかこむのだ。壁と光、かげと光、悲しそうに愉快に、また厳粛になどと。これらの要素で構成しなければならない。(p149〜150) |
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アテネのアクロポリスでは、神殿は相互にゆずり合って風車紋様をつくり、目はよくこれを一掴みにできる(左上図)。海の線は桁とともに構成される(左中図)等々。無限の源泉を用いる芸術はこわれやすい宝物で構成されるのだから、秩序立っている時にしか美をつくらない。 アドリアナ邸にて、ローマの平原と共鳴するように設定された床(左下図)、山がこの構図を締める。もっとも山をもとにして構成したのだが(下図)。 ポンペイのフォーラムにて、それぞれの建物の眺めが、全体の中で、ある細部に対し、いつも新しい興味を呼び起こす(下図)等々。 |
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違反 これから示すことは、プランは内から外に働くことを考えなかったこと、よく調整された唯一の息吹で生かされた立体で構成しなかったこと、作品の動機となった意図という目的に合致せしめ、その目的は後に目で確かめられるようになっていないということだ。内部の建築的要素、それは面であり、集まって光を受け、立体を浮き彫りにする。それで構成しなかったのである。空間を考えなかったが、かわりに紙の上に星をつくった。星になるような軸を引いた。建築の言葉でない意図に頼った。概念の間違いからか、または虚栄への傾斜から平面の法則に違反した。 ローマの聖ピエトロ寺院。ミケランジェロは巨大なドーム、それまで目にしたことのない、すべてを越えるようなドームをつくっていた。玄関を通ると、この大ドームの下に入るようにした。しかし法皇たちはその前に三スパンを加え、大きな前室を加えた。構想は破壊された。今ではドームの下に至るまでに一〇〇メートルのトンネルを行かなければならない。二つの対等な空間は相殺し合う。建築のよさは失われた(げすな虚栄の装飾を加え、最初の誤りは上塗りされ拡大されすぎて、聖ピエトロ寺院は建築家にとって謎となって残る)。コンスタンチノープルの聖ソフィア寺院は面積七〇〇〇平方メートルでこれに勝る。聖ピエトロ寺院は一万五〇〇〇平方メートルであるのに(下図)(p152) |
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ベルサイユ。ルイ一四世はもはやルイ十三世の継承者ではない。彼は太陽王である。べらぼうな虚栄。王座の下に、彼の下に建築家たちは鳥瞰的な図を、まるで星座のような図を持参する。巨大な軸、星。太陽王は誇りでふくらむ。大規模な工事が着工される。しかし一人の人間は二つの目しかなく地上一メートル七〇に持つだけだ。そして一時に一点しか見つめられない。星のそれぞれの凸出部は次々にしか見られない。そしてそれは一業の木の茂みの中の一直線である。直線は星ではない。星はくずれた。そしてすべては次々と同じように全体的な眺めから外された。大地も、装飾芝生も、また建物は部分しか見えず移動しつつしか見えない。それは罠だ、錯覚だ。ルイ一四世は自ら扇動して間違ったのだ。彼は建築の真理に違反したのだ。なぜなら彼は建築の客観的な要素を通じて進めなかったからだ。(左図)(p153〜154) | |||||||||||||||||||||||||
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それから、大侯の王子、貴族、その他大勢が、太陽王の栄光により、カルルスルーヘの町(左図)を設計し、意図をもっとも嘆かわしい失敗に至らしめた。完全なKO(ノックアウト)である。星は紙の上にのみ残る。僅かな慰め。錯覚。立派な平面の錯覚。町のすべての隅角から、いつも城の窓が三つしか見えない。そしていつも同じ窓に感じられるから最もつまらぬ借家でも同じ効果をあげるだろう。お城からは、いつも一つの道しか辿れない。そしてどの町の道も同じような効果しかない。虚栄の虚栄。平面を設定するとき、人間の目がその効果を認めるのだということを忘れてはならない。 | |||||||||||||||||||||||||
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建築3 精神の純粋な創造 石材を、木材を、セメントを工事にうつし家屋や宮殿をつくる。これは建設である。知性の働きだ。 |
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はっきりと表明し、作品として統一的に生かし、基本的な態度、性格を与えるということは、純粋な精神の創造である。 |
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家屋の平面、その立体や面は、ある部分は実用的な与件によって、他の一部は想像力や造形的創造によって決定される。平面が既にそうだし、空間へのびるすべてにも、建築家は造形家であった。彼は実用的な要求を整理して、彼の追求する造形的な目的に沿わしたのだ。彼は〈作曲した〉のだ。 |
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