ル・コルビュジェ、吉阪隆正訳『建築をめざして』、鹿島出版会、1997年
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赤字は引用者による強調(原典にはない強調)

建築は今日その初心を記憶していない。
建築家たちは何々様式をつくるか、または構造について論じ過ぎる。顧客も大衆も見なれたものを土台にして感じ、不十分な教養によりかかって判断する。われわれをとりまく外界は機械のためにその姿の上にも使い方の上にも猛烈な変化を示している。我々は新しい視野、新しい社会生活が与えられたのに、それを家屋には採用していない。(p30)


建築とは芸術的な事実、感動を起こす現象、構築の問題の外、それを越えた所にある。構造は、「こわれないようにする」ことだ。建築は、「感動を与える」ためだ。建築的な感動とは、作品のひびきが、われわれが支配をうけ、それを認め、それを讃えている宇宙の法則の音叉をあなた方の心の中でならす時である。ある一定の比例が達せられると、われわれはその作品のとりこになる。建築とは〈比例(ラポール)〉であり、それは〈精神の純粋な創作物〉である。(p32)


立体(ボリューム)
〈われわれの目は光の下で形を見るようにできている。〉
〈初原的な形は、はっきり読み取れるので、美しい形である。〉
〈今日の建築家たちはもはや素朴な形をつくらない。〉
〈計算に頼り、工学技師たちは幾何学的な形を用い、その幾何学はわれわれの目を、その数学はわれわれの心を充たしてくれる。彼らの作品は大芸術への道を進んでいる。〉
建築は「何々様式」とは何の関係もない。ルイ一五、十六、十七世紀様式とか、ゴシック様式とかは、建築にとって、婦人の頭に飾る羽根のようなものだ。それは時には綺麗かも知れないが、いつでもというわけにはゆかず、またそれ以上のものではない。
建築にはもっと厳粛な使命がある。崇高といえるもの、その客観性を通じて本能の一番もとに触れることだ。その抽象性そのものから、もっとも崇高な能力を喚起することだ。建築的抽象は、次のような特異性と素晴らしさを持っている。すなわち生ま身なところにその根源を持ちながら、それを精神的なものに高めることで、生ま身だということは、とりもなおさず物質につながることだし、それは可能性という考えの象徴なのである。生ま身な事実というものは投影する秩序によってしか考えとしてまとまりはしない。建築が呼び醒ます感動は、今日では忘れられている物質的な条件から発するものなのである。それは争えぬし、否定し得ないようなものなのだが。
立体(ボリューム)と面とは建築を表明する要素である。立体も面も平面(プラン)によって決定される。
平面(プラン)が原動力である。想像力不足の方々にはお気の毒だが。

第一の覚え書…立体(ボリューム)
建築とは光の下に集められた立体の蘊蓄であり、正確で、壮麗な演出である。われわれの目は光の下で形を見るようにできている。明暗によって形が浮かび上がる。立方体、円錐、球、円筒または角錐などは初原的な形で、光ははっきりと浮び上がらせる。その像は明確で掴みやすい。曖昧さがない。それゆえに〈美しい形であり、もっとも美しい形〉である。誰でもこのことには一致している。子供でも、野蛮人でも、哲学者でも。これは造型芸術の条件そのものでもある。(p35〜39)



〈一つの立体(ボリューム)は面によって覆われている。その面は、立体を構成し導き出した力によって分割され、その立体の独自性を明らかにする。〉
〈建築家たちは今日面の幾何学的な構成を怖れている〉
〈現代の建設の大きな課題は、幾何学に立脚して実現されるだろう。〉
〈従わざるを得ないプログラムの厳密な要求の下で、工学技師たちは形を生み出し、強調するもとのものを利用する。彼らは造形的に澄んだ印象的な諸相を生み出す。〉(p41)

第二の覚え書…面
建築は光の下に集められた立体(ボリューム)の蘊蓄であり、正確で壮麗な演出であるから、建築家はこれらの立体を包む面を生かすようにする任務があり、現在の悲しいなり行きのように面それ自身のために立体を食いつぶしたり、寄生物としたりしないようにしなければならない。
光の下で、その立体(ボリューム)の持つ形の美しさを残すことだが、
一方で多くの場合実利的な任務に合致させて面を分割する際に、その形を〈生み出した力〉と、〈強調する力〉を生かすように努めなければならない。いいかえれば、一つの建築は、家屋であり、寺院であり、または工場であることだ。寺院または工場の面は、大部分の場合、壁であり、それに窓や出入口の孔があく。この孔はしばしば形の破壊者となる。それを形を強調するものにしなければならない。もし建築の根本が球とか、円錐、円筒ならば、その形を生み出し、強調している力は純粋に幾何学に属する。だが、この幾何学が今日の建築家たちをおびえさせるのだ。(p43)

平面(プラン)
〈平面(プラン)は原動力である。〉
〈平面なしには、無秩序といい加減がある。〉
〈平面の中に感覚の粋を蔵している。〉
〈明日の大課題は、集団の要求によって示され、あらためて平面の問題を提起する。〉
〈現代の生活は、家屋にも都市にも新しい平面を要求し期待している。〉(p48)


立体と面とは建築を表明する要素である。立体も面も平面によって決定される。平面が原動力である。想像力不足の方々にはお気の毒だが!(p51)


第三の覚え書…平面(プラン)
平面は原動力である。
見る人の目は街路と家屋とでできた景色の中を動く。周囲に聳える立体の刺激をうける。もしもそれらの立体が厳正であって、不適当な虚飾で品位を犯されていず、またその群の配列が澄んだ律動を表現していて、単なる無関係な集積でなく、また立体と空きとが適当な比例になっていれば、目は脳髄に連帯感を伝え、それは心に高い水準の満足を与える。これが建築である。
目は室内においては、いろいろな壁やボールトを観察する。丸天井が空間を決定する。ボールトは面を展開する。柱や壁は理解できるような理由に従ってところを得る。この
構造体の全体は基礎から立ち上るが、それは地上に一定基準に従って展開された平面として示されたものに則る。美しい形、さまざまな形、幾何学的な原理による統一。深いところでの調和の伝達、それが建築である。

平面(プラン)は基礎である。平面(プラン)なしには、意図や表現の偉大さもなく、律動(リズム)も立体(ボリューム)も脈絡もない。平面なしには、人間にとってあの耐え切れない感じの、あのくずれた、貧しい、乱雑な、いい加減さがある。
平面はもっとも活発な想像力を必要とする。それはまたもっとも厳正な規律を必要とする。平面は全体の決意である。それは決定的瞬間である。平面とは、マリア様の顔を描くような綺麗なものではない。それは峻厳な抽象である。眺めては無味乾燥な代数化のようなものである。だが数学者の仕事はそれでも人間の精神活動のもっとも高尚なものとされている。
整理されたものは、すべての人が、同じような反応を示す律動(リズム)と掴まえられる。
平面はそのもの自体の中に決定的な基本的な律動(リズム)を持っている。作品は同じ法則にのっとって最も単純なところから複雑なところまでそこに示された処方によって縦に横にのびてゆく。統一されている法則とはよい平面の法則である。単純で無限に組み合せられる法則である。
律動(リズム)とは一つの均衡状態であり、単純なまたは複雑な対称性(シンメトリ)か、綿密な平衡によってつくられる。律動(リズム)とは方程式であって、等質化(対称、反覆)(エジプトや印度の寺院)、補償(逆方向の動き)(アテネのアクロポリス)、抑揚(はじめに発明した造形的なものの展開)(聖ソフィア寺院)である。各々はそれぞれ根本的に異なった反応を示すだろうが、もとは一つの目的、律動(リズム)、すなわち均衡なのである。そこから偉大な時代のあの多様性が生まれるのであって、多様性は建築の原理の中にあり、装飾的な様相にではない。
(p51~53)


「ある邸宅の設計」(1916年)
立面全体は、平面も裏側も同じ角(A)によって規制されている。この角によってできた斜線に平行な無数の線と、これに直角な線とによって二次的な要素の寸法を修正する。すなわち扉、窓、羽目板など、ごく細かい細部まで。
この小規模の邸宅は、他の規範なしに建てられた建物の間にあって、別種の記念碑的様相を示した。

(p74~75)

われらの時代の芸術は、選ばれた人の前ではそのところを得ている。芸術は通俗的なものではない。まして「贅沢な情婦」ではなおさらない。芸術は選ばれた人が指導力を養い育てる時のみ栄養として必要なのだ。芸術は本来高貴なものだ。(p87)


建築1

ローマの教訓
〈建築とは、自然の材料を用いて、感動させるような比例を設定することである。〉
〈建築は効用性のかなたにある。〉
〈建築は造型性にある。〉
〈秩序の精神、意図の統一、比例の感覚。建築は量を裁量する。〉
〈情熱は生命なき木石で劇を作り上げる。〉
(p121)


建築2

平面(プラン)の幻覚
〈平面は内から外に向う。外部は一つの内部の結末である。〉
〈建築の要素は、光とかげ、壁体と空間とである。〉
〈秩序立てとは、目的の序列化であり、意図の分類である。〉
人間は、建築的なものを地上一メートル七〇の高さにある目で認識する。目に映ずる目標、建築の要素を尊重した意図だけが、当てになる。もし建築的言語以外の要素に頼るならば、平面の幻覚に陥り、理解不足か、または虚栄への傾斜によって平面の法則に違反する。〉(p137)

プランは内から外に向う
一つの建物はシャボン玉のようなものだ。この泡はもし気圧が内部からよく規制されてよく平均していれば、完全に調和している。小アジアのブルッスにある緑のモスク
人間的な尺度の小さな扉から入る。ごく小さな玄関が、観賞に必要な尺度の変化の場として作用し、通ってきた道や敷地から来る尺度と、印象づけようとする尺度とを調整する。すると回教寺院の大きさを感じ、あなたの目は測定できる。大理石で真白な、光がいっぱいある広い空間に入る。その先にほとんど同じ寸法の第二の空間があるが、くらがりが充満していて、数段上っている(ミノールで繰り返し)。両側には、もっと小さい暗がりが二つある。ふりかえると、二つのごく小さな暗がりがある。光いっぱいのところと暗がりとのリズムがある。まるでかわいい扉と、大変ひろい入込み。そこでつかまってしまい、普通の尺度を失ってしまう。感覚的なリズム(光と立体)の支配下に入り、巧みな方法で、それ自体の世界に導かれ、語るべきことを語れる態勢になる。何という感動、何という信仰! これが動機となった意図である。考えの束は用いられた手段である。結果。ブルッスでもコンスタンチノープルの聖ショフィア寺院でも、イスタンブールのスレイマニエ寺院でも、これらの結果としての外がある。
結婚の家(カサ・デル・ノチエ)、ポンペイにて。やはり
道路での精神を取り除ける玄関。そしてカベイディウム(控えの間(アトリウム))に入る。真中に四本の柱(四つの円筒)が、屋根の陰に向って一挙にのびる。力の感じと力強い手段。だが奥には柱廊をとおして輝く庭に、大らかな光の面としてひろがり、届き目立たせ、左に右に遠くおよび、大きな空間をなす。二つの間には、タブリウムが写真器のレンズのようにこの眺めを限定する。右と、左に、二つの小さなかげの空間。みなの雑踏の道、思いがけない絵画的な眺めが一ぱいの場所から、こうして一人の〈ローマ人の〉家に入ったのだ。威厳ある大きさ、秩序。立派な広がり、一人の〈ローマ人の〉ところにいるのだ。それらの部屋は何のためにあるのか? それは問題外だ。二〇世紀の後、歴史的な暗示なしに、建築が感じられる。それだのにこれはごく小さい家なのだ。(p141~142)
内部の建築的要素
真直な壁がある。広がる床がある。人または光の通る孔、出入口や窓がある。孔は明るくしたり、暗くしたりして、快活にしたり悲しくしたりする。壁は光で輝いていたり、かげの中に、またはかげになって、愉快にしたり、平静にさせたり、悲しくさせたりする。交響曲がここに汲上げられる。
建築はあなたを愉快にしたり、平静にしたりする目的がある。壁を尊重してください。ポンペイの連中はこの壁に孔をあけない。彼らは壁を尊び光を愛する。光はもし壁が反射をしてくれるなら生気がある。古代人は壁をつくった。長くつづく壁、それをさらに長くしてつなげた。こうして建築的な感覚の基礎であり、生理的な感覚としての立体(ボリューム)をつくり出した。光は明確な意図をもって、その端で輝き、壁を照らす。光はその〈印象〉を外に向って円筒で(私は円柱といいたくない。これはいためられた言葉だ)列柱または柱でひろげる。床は一定に、凸凹なしにどこまでも出来るだけのびている。時に、ある印象を加えるために、床は一段高くなる。この外に内部の建築的な要素はない。光と壁、それを大きな面にくりひろげる壁と水平壁である床と。光の当る壁をつくるということは、内部の建築的な要素を構成することだ。残るは比例である。(p144)
秩序立て
軸線は人間自身のあるいは最初の表明かも知れない。それは人間のすべての行動の手段である。よちよち歩きの子供はある軸に向う。人生の嵐の中で闘う男は一つの軸を描いてゆく。軸は建築を秩序立てるものである。秩序立てるとは、仕事をはじめることである。建築はいくつかの軸の上に設定される。美術学校で用いられる軸は、建築の災害である。軸とは一つの目的に向っての行動の指針である。建築においては、軸は目的を持たねばならぬ。学校ではそのことを忘れ、いくつもの軸を無限、無定、無明、虚無に向わせ、目的がない星型に交わらせる。学校で用いる軸は一つの処方、一つの要領である。
秩序立てるということは、軸線の序列を定めること、すなわち目的群の序列、意図の序列を定めることだ。
したがって建築家は、軸に目的を課する。その目的とは、壁(密実、感覚的感情)または光、空間(感覚的感情)である。
現実には、軸は地面に示される如く空から見下ろすように察知できるものではない。人は地面に立って、前を向いて知るのである。目は遠くまで見る。そして乱されることなき客観、その向うの意図や意志までもすべてを見る。アクロポリスの軸は、ピレウスからペンテリコンまで、海から山まで行くのだ。軸に直角なプロポレウスからは、遠くの水平線に海がある。あなたのいるところの建築が印刻する方向とは直角な水平線があり、この正面を向いた感覚が重要だ。高貴な建築アクロポリスは、水平線までその効果を及ぼす。プロピレウスからは別の方向に、アテナの巨像を軸に、ペンテリコンを奥に。これは効果がある。そしてこの強烈な軸を外して、右にパルテノン、左にエレクテオンがあるので、それらの全体的な表情を四分の三まで〈見ることができる。〉建築ではすべてを軸の上にのせてはいけない。そうすれば、それだけたくさんの人々が同時に話しかけるのと同じだ。
ポンペイの市場(フォーラム)。秩序立てとは目的の序列化だ。意図の分類だ。フォーラムの平面は多くの軸を持っているが、美術学校では決して三等賞も貰えまい。星型になっていないから拒否されるだろう。このような平面を眺めるのも、このフォーラムの中を散歩するのも精神的な喜びだ。
さて悲劇の詩人の家の中、消化された芸術の洗練さ。すべては軸を持っているが、これらを一直線に結び合わすことは難かしい。
軸線は意図の中にあるが、その設定から生れる荘重さは簡単な事物の上にも及び巧みにこれを目の錯角によって生かす(廊下、主通路など)。軸はここでは理論的なかわいたものではない。はっきりと描き出され、それぞれ異なっている主要な立体をつないでいる。悲劇の詩人の家を訪れるなら、すべてが秩序立っていることに気づかれるだろう。だがその感じは豊かである。軸に外れたところが巧みに生かされて立体の強さを増している。すなわち、床の鋪装の中心のモチーフは、部屋の中から奥にのばされている。入口の井戸は池の縁に片寄っている。奥の噴水は庭の隅にある。部屋の中心に物を置くことはしばしばその部屋を殺してしまうことがある。なぜならあなたが部屋の中心に立つこと、そこに立って軸線を見ることを妨げるからだ。広場の真中に立つ記念碑はしばしばその広場を殺しそれを囲む建物をも殺すーしばしば、だがいつでもとはいわない。その時々の条件によって、それぞれ理由のある場所だから。(P144〜149)
外部は常に内部である。
学校で、星型の軸線を引くとき学生たちは建物の前にやってきた鑑賞者が、この建物だけに感応し、その視線は、確実に、また、もっぱらこれら軸線に定められた重心のところに向けられて止まるものと想定している。
人間の目は周囲を調べるために、終始回転し、また人間も右や左へ廻り、グルグル動く。すべてに関心を持ち、そこに関係する場全体の重心に引きつけられる。このことは周囲へ一挙に問題をひろげる。隣の家、遠く近くの山、高いまたは低い地平線、これらは巨大な量として、その量に比例した力で働きかける。見かけの容量と、実体の容量は刻々に評価され、知的に感じ取られる。容量の感じは直接的で、初原的である。あなたの建物は、一〇万立方メートルとしても、周囲にあるものは数百万立方メートルだ。これは勘定に入る。次に密度の感じがある。石ころや、木や、丘などは、密度的には、形の幾何学的な組み合わせよりは弱い。大理石は目に心に木より密にうつる等々の順がある。序列化がいつもある。
要約すれば
建築的な景観では、敷地の要素はその容量として、その密度として、材料の質として、はっきり定まった、はっきり異なった感じを与えるもの(木材、大理石、樹木、芝生、青い水平線、遠近の海、空)として関与してくる。敷地の要素は、広間の壁のように「容量」の指数の力、その積層化や、材質などで粉飾した壁となり、とりかこむのだ。壁と光、かげと光、悲しそうに愉快に、また厳粛になどと。これらの要素で構成しなければならない。(p149〜150)
アテネのアクロポリスでは、神殿は相互にゆずり合って風車紋様をつくり、目はよくこれを一掴みにできる(左上図)。海の線は桁とともに構成される(左中図)等々。無限の源泉を用いる芸術はこわれやすい宝物で構成されるのだから、秩序立っている時にしか美をつくらない。
アドリアナ邸にて、
ローマの平原と共鳴するように設定された床(左下図)、山がこの構図を締める。もっとも山をもとにして構成したのだが(下図)。
ポンペイのフォーラムにて、
それぞれの建物の眺めが、全体の中で、ある細部に対し、いつも新しい興味を呼び起こす(下図)等々。
違反
これから示すことは、プランは内から外に働くことを考えなかったこと、よく調整された唯一の息吹で生かされた立体で構成しなかったこと、作品の動機となった意図という目的に合致せしめ、その目的は後に目で確かめられるようになっていないということだ。内部の建築的要素、それは面であり、集まって光を受け、立体を浮き彫りにする。それで構成しなかったのである。空間を考えなかったが、かわりに紙の上に星をつくった。星になるような軸を引いた。建築の言葉でない意図に頼った。概念の間違いからか、または虚栄への傾斜から平面の法則に違反した。
ローマの聖ピエトロ寺院。ミケランジェロは巨大なドーム、それまで目にしたことのない、すべてを越えるようなドームをつくっていた。玄関を通ると、この大ドームの下に入るようにした。しかし法皇たちはその前に三スパンを加え、大きな前室を加えた。構想は破壊された。今ではドームの下に至るまでに一〇〇メートルのトンネルを行かなければならない。
二つの対等な空間は相殺し合う。建築のよさは失われた(げすな虚栄の装飾を加え、最初の誤りは上塗りされ拡大されすぎて、聖ピエトロ寺院は建築家にとって謎となって残る)。コンスタンチノープルの聖ソフィア寺院は面積七〇〇〇平方メートルでこれに勝る。聖ピエトロ寺院は一万五〇〇〇平方メートルであるのに(下図)(p152)
ベルサイユ。ルイ一四世はもはやルイ十三世の継承者ではない。彼は太陽王である。べらぼうな虚栄。王座の下に、彼の下に建築家たちは鳥瞰的な図を、まるで星座のような図を持参する。巨大な軸、星。太陽王は誇りでふくらむ。大規模な工事が着工される。しかし一人の人間は二つの目しかなく地上一メートル七〇に持つだけだ。そして一時に一点しか見つめられない。星のそれぞれの凸出部は次々にしか見られない。そしてそれは一業の木の茂みの中の一直線である。直線は星ではない。星はくずれた。そしてすべては次々と同じように全体的な眺めから外された。大地も、装飾芝生も、また建物は部分しか見えず移動しつつしか見えない。それは罠だ、錯覚だ。ルイ一四世は自ら扇動して間違ったのだ。彼は建築の真理に違反したのだ。なぜなら彼は建築の客観的な要素を通じて進めなかったからだ。(左図)(p153〜154)
それから、大侯の王子、貴族、その他大勢が、太陽王の栄光により、カルルスルーヘの町(左図)を設計し、意図をもっとも嘆かわしい失敗に至らしめた。完全なKO(ノックアウト)である。星は紙の上にのみ残る。僅かな慰め。錯覚。立派な平面の錯覚。町のすべての隅角から、いつも城の窓が三つしか見えない。そしていつも同じ窓に感じられるから最もつまらぬ借家でも同じ効果をあげるだろう。お城からは、いつも一つの道しか辿れない。そしてどの町の道も同じような効果しかない。虚栄の虚栄。平面を設定するとき、人間の目がその効果を認めるのだということを忘れてはならない。

建築3

精神の純粋な創造
〈刳り型(モデナチュール)は建築家の試金石である。それによって芸術家であるか、単なる工学技師であるかがあらわれる。〉
〈刳り型はあらゆる拘束から解放されている。〉
〈ここには慣習も、伝統も、構造手法も、効用的な必要に適合させることもない。〉
〈刳り型は精神の純粋な創造である。造形家の登場を待つのである。〉

石材を、木材を、セメントを工事にうつし家屋や宮殿をつくる。これは建設である。知性の働きだ。
しかし、突如、私の心をとらえ、私によいことをしてくれ、私は幸福となり、これは美しいと言ったとしたらこれは建築である。芸術はここにある。
私の家は便利だ、ありがとう。この感謝は鉄道の技師に、電話会社にいうありがとうと同じだ。私の心にふれたのではない。
だが、空に向って伸びる壁が私を感動させるような秩序になっていたとする。私はそこにやさしく、荒々しく、可愛いいまたはある意図を察する。そこの石がこれを語る。私をそこに釘づけにし、私の目はそれを眺める。私の目が眺めるのはそこに述べているある考えである。言葉も音もなしに語る考え、ただ相互にある関係にある角柱の組合せとして明らかにされるものだ。これらの角柱を光は細やかにはっきりさせるそこにある関係は、実用とか描写とかと結びつかないことだ。それは精神の数学の創造物である。建築の言葉である。
生命のない材料と、多少なりとも実利的な計画に沿っていながら、それを越えて、私を感動させるような関係を生み出したのだ。これが建築である。(p155〜156)

はっきりと表明し、作品として統一的に生かし、基本的な態度、性格を与えるということは、純粋な精神の創造である。
このことを絵画や音楽には認められる。だが建築はその実用的な因子たる婦人の個室、W・C、放熱器、鉄筋コンクリート、または、迫持の穹隆または尖弓形の拱門等々に下げてしまう。これらは建設のことで建築のことではない。建築は詩的感情のある時のことだ。建築は造形のものだ。造形とは、目に見えるもの、目が測れるものだ。当然ながら屋根が洩り、暖房がきかなくて、壁に亀裂が生じたならば、建築の歓びは大いに妨げられるだろう。それはちょうど針差の上に坐ったり、戸のすき間風のところにいて交響楽を聞く紳士みたいなものだ。
建築のどの時代もほとんど構築的な研究につながっていた。しばしば結論として、建築とは構築であるとした。建築家たちの努力の大部分が当時の構築の問題にはまり込んでいたともいえる。しかし、だからといって混同してはいけない。確かに建築家は構築について思想家が文法を手にしているぐらいに正確に自らのものとしていなければならない。しかし、構築術は文法よりもう一つ難しく複雑であるので、建築家は長いことそれに拘わっている。しかしそこに固定してしまってはいけない。(p162)

家屋の平面、その立体や面は、ある部分は実用的な与件によって、他の一部は想像力や造形的創造によって決定される。平面が既にそうだし、空間へのびるすべてにも、建築家は造形家であった。彼は実用的な要求を整理して、彼の追求する造形的な目的に沿わしたのだ。彼は〈作曲した〉のだ。
そこで〈顔の線〉を彫り出さねばならぬ時が来た。彼はいわんとするところを光とかげを組合わせて語らせた。
刳り型はすべての要求から自由である。その干渉いかんは顔を輝かしくするか曇らせるかの全権を持っている。刳り型によって造形家の力がわかる。工学技師は消え、彫刻家が働く。刳り型は建築家の試金石である。刳り型に対し彼が壁に直面して造形家であるかないかが決まる。建築は光の下の立体の巧緻な、正確な、素晴らしい遊びである。刳り型は実務家を、大胆な人、工夫ある人も、置いてきぼりにする。だが造形家には呼びかける。
(→)

(→)
ギリシャが、ギリシャで、パルテノンにおいて、この純粋に精神の創造である、
刳り型の極致を記録した。
それは、もはや慣習でも、伝統でも、構築の方法でも、実用的な要求への適合でもないことを知るべきだ。それは純粋な発明、一人の人間のものなるがゆえに個性的である。フィディアスはパルテノンをつくった。イクチノスやカリクラテスはパルテノンの公的建築家でありながら、他のドリックの神殿をつくったが、ずっと冷たく無感動のものだからだ。情熱、慈悲、魂の偉大さ、その他の徳が、刳り型の幾何学の中に刻みこまれ、正確な関係に組み込まれた量となっている。パルテノンはフィディアスがつくったのである。この大彫刻家フィディアス。
どの時代、どの地方を探しても、建築で世界的にこれに比肩するものはない。それは空前絶後の瞬間として、ある一人の人間が、もっとも高貴な思想にかき立てられ、
光とかげを造形の中に結晶させたのである。パルテノンの刳り型は打ち勝ち難い、完璧のものだ。その厳密さはわれわれの慣習を越え、普通の人の能力をこえている。ここにはもっとも純な姿で、感覚の生理学と数学的な考察とが結びつけられ得ることの証拠がある。感覚はここによせつけられ、心はこれによろこびの限りを知る。調和の軸にふれるのだ。宗教的教理にも象徴的な説明にも、具象的な自然にも関係ない。それはただ正確な比例、純粋な形、それだけのものである。
二〇〇〇年来、パルテノンを見た者はここに建築の決定的瞬間のあったことを感じた。われわれは今、決定的瞬間を前にしているのだ。現在時点では芸術は模索しており、たとえは絵画では少しずつ健全な表現の公式を見出しつつあるが、観者とはげしく衝突している。パルテノンは高度の情緒、数学的な秩序という自信をつけてくれる。芸術とは詩である。情緒は感覚のものであり、精神の歓びであり、
われわれの存在の根底に関係する軸上の原理を認め、讃え、測ることだ。芸術はこの精神の純粋な創造がわれわれにある極致、人間が到達できる〈創造〉の極致としてそれを示すことだ。そして人間は自から〈創造することを感じる〉ことに大いなる幸福を感じるのだ。(p165〜168)

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