ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 1先都市時代の住居」、彰国社、1985年
半恒久的な住居(Semipermanent Dwellings)
住居形式の第五番目の発展段階は、定住社会の半恒久的な小屋や家屋である。家族を中心とする優れた社会的組織をもったこの共同体は、主要作物の耕作によって存立している。一般にくわを用いて耕作が行われており、より精巧なすきや他の農機具を使用する段階には至っていない。こうした原始的な耕作段階では、灌漑のできる土地を除くと、収穫が減少した時には2〜3年間は休耕する必要がある。そして、このことは彼等の住居の在り方に直接影響を与える。すなわち彼等の住居の使用期間は、その耕作システムに応じて、2〜3年から15年ぐらいの間で変化するのである。

農業の発展と家畜の飼育とは、ゆるやかに進行した一種の革命だと言える。当時の食糧生産のレベルは大部分が生存を維持する程度のものに過ぎなかったが、この革命の人類史上における効果は、産業革命の効果と同じく大きいものであった。作物を育て、家畜を飼育するようになると、農民たちは財産所有権についての明白な概念を発達させた。狩猟者や食物採集者の広大な領域に比べると、彼等の保持する土地は非常に狭く、1haに満たない場合もあった。小規模ではあっても、土地を開発するということは、彼等の物的環境をかなり改変することともなった。土地は家系によって代々受け継がれるので、土地保有の大小は階層差をもたらした。しかしこうした階層の違いは、くわを用いる農夫たちの社会の基本的な構造にはほとんど影響を与えなかった。というのは、余剰作物がほとんどなかったため、人々の財産にはあまり差が生じなかったからである。

くわを用いる農夫の社会を、単一の文化形態、もしくは単一の社会経済的な組織で特徴づけることはできない。物的環境、作物、栽培技術、労働組織、文化的遺産などが多種多様であるため、多くの居住様式が生じるのは当然である。しかしながら、こうした複雑な相違にも拘わらず、これらの社会集団やそこに建設される住居に関して幾つかの共通した特性を認めることができる。

狩猟採集民や遊牧民が、自然に備わった生産力を利用するのに比較して、くわを用いる農夫は、種子を選んで定期的に植えつけ、生産するための畑を切り開くことを通して計画的に耕作する。継続して食糧を確保するためには経験的な栽培知識に加えて先の見通しや仕事の手順を知っておく必要がある。不作の年に食べられるだけでなく、次の年のために種子を蓄えなければならない。作物を蓄えることが可能となって、より多くの人々が与えられた土地で生活することが可能となって、住居がより集中しはじめ、時には村落が形成されることとなった。

定住社会の基本的な住居形態は、円錐形のわら屋根をもった円筒形の小屋や楕円形の家、そして鞍形の屋根をもち角が丸くなった長方形の住居等である。最も単純なものは一室だけであり、小さい家畜と同居することもある。最も複雑なものでは小屋を相互につないだ複合住居がつくられる。これには普通、一夫多妻の拡大家族か複合家族が居住する。貯蔵施設をはじめ、家畜のための囲いや小屋、台所小屋といった付属的な建物も建てられた。なお、こうした社会において、礼拝の場などの公共建築物が出現していることは興味深い。


ルイアとルオの住居

ルイア族はケニアの肥沃な起伏のある丘に住み、ルオ族はビクトリア湖の周りの低地に住んでいる。主にとうもろこしを栽培し、ほかに各種の穀物や野菜類およびバナナも栽培する。

壁は木柱に補助された日干しレンガ。木柱の間には梁がわたされ、円錐状の屋根の垂木を支える。建物内部には屋根構造を支えるための補助柱が建てられる。軒の垂木の間には15cmの隙間があり、換気を良好にしている。屋根葺き材はパピルスの草。

ルイア族の伝統的住居は二つの部分に分けられる。大きな方は社会的な活動が行われる応接空間である。小さな方はしばしば外壁と平行してつくられ、居住者が眠り、調理し、食事をする生活空間として使われる。外部から二つの部分への出入りは別々の入口から行われるが、内側ではドアでつながっている。

ルイア族に近いルオ族も、草葺きの円錐屋根をもつ円筒形の泥の小屋に住む。ルオ族の住居はルイア族の住居と同じ方法で建てられるが、同じ円状の二つの柱列が共に日干しレンガで覆われていることが多い。ルイア族の住居では、外壁の壁がベランダを意味していたのに比べると、ルオ族の住居の外側の壁はしばしば囲われており、この廊下のような空間は台所や倉庫などの部分に分けられており、真中の部屋で、睡眠や社会的活動が行われる。

メサキン・クゥイサーの住居

スーダンに住むメサキン・クゥイサーは、典型的な半恒久的複合住居である円形の小屋群に住んでいる。5〜6棟の窓のない円形小屋が中庭を囲み、基礎は、内側野中庭からの雨水が上手く排水できるように注意深く石で造られている。壁は日干しレンガでつくられ、両側に泥が塗られている。厚さは土台の所で30cmあり、上の方ほど薄くなる。壁の高さは2〜3m、小屋の直径は3.3〜4mで、おのおのに円錐形の草屋根がかかり、小塔のような効果を出している。内側の中庭には、草と大枝を荒く編んだ屋根がかかる。

五つの小屋から成る群住居では、入口のドアは小屋の接続部の壁に設けられ、内側の中庭に直接導かれる。六つの小屋から成る場合には、入口は大きい小屋一つ(客間であることが多い)に設けられており、ここを通らないと中庭に入れない。この入口は、荷物を背負った人が入れるように鍵穴の形をしている。

各小屋の使用目的は決まっている。家畜小屋にはしばしば、高いところにある別の入口から入れる屋根裏部屋があり、小さい男の子が寝るところとなる。少し年長の女の子は、穀物を置いてある小屋で寝る。

小塔の間には、一対のカモシカの角にひょうたんを載せた原始的なシャワーがある。

中庭はメサキン族の住居の主要な空間で、たいていの社会的活動や食事や調理が行われる。中央には炉があり、周りには石や小枝で作った簡単な椅子が並べられている。小塔の中庭側の外壁には木の止め釘がついていて、武器や道具類、ひょうたん、さまざまな壺等が吊るされている。

小屋への出入りはすべて中庭から行われる。入口は通常楕円形で高い敷居がついている。寝室や、ときには穀物倉庫として用いられるニ、三の小屋への入口は、地上1.5mの高さにある、直径30〜35cmの穴である。メサキン族がこの狭い入口から出入りするときの上品さと素早さは驚くべきものである。入口が小さいため、暑い日中は涼しく、寒い夜間は暖かい。敷居の高さは、蛇やサソリの侵入を困難にする。さらに、小屋を穀物倉庫として使うときは、入口を塞ぐことも容易である。

外壁は素地のままだが、内壁は接続部も含めて、しばしば青く輝く上塗りがされる。これは装飾が主な目的だが、表面を難く滑らかにする効果もある。上塗りは黒鉛を含んだ土で壁を塗り、青い輝きが現れるまで手でこすって行われる。泥の壁はまた幅の広い装飾用の縁取りで彩られている。シャワー部は特に豪華に飾られ、日干しレンガの壁を水の侵食から保護している。

アオナの群住居

ガーナからオートボルタにかけて住んでいるアオナ族(フラ・フラ族とも呼ばれる)の住居は、典型的なアフリカの円形小屋による複合住居である。メサキン族同様一夫多妻制であり、おのおのの妻とその子供達が一つの群住居を占めるため、数個の群住居が円く並んで、大きい拡大家族を構成している。そしてその周囲を家畜のオリとなる円形ないしは楕円形の壁が取り囲んでいる。

群住居には人間だけでなく、ヤギ鶏、ホロホロ鳥なども収容する。円形小屋はおのおの割り当てられた機能を持つ。

壁は泥でつくられ、屋根は木の骨組の上にわらを厚く載せたものがほとんどだが、倉庫の屋根は木の骨組に泥を載せた陸屋根で、この屋根面は穀物を乾燥させるのに利用される。屋根ができると、シロアリ防止のため、骨組やふきわらが黒くなるまで、小屋の中で薪木が燃やされる。

壁と床は、牛の糞といなご豆のさやからとった汁を混ぜた泥で塗られる。これが固まると、滑らかで水を通さなくなる。小屋に窓はなく、光は高さが1.2mしかない低い戸口から入るのみ。中に雨が入らないように、ドアのすぐ内側に23cmの高さの敷居が置かれる。

中庭には緩い傾斜があり、仕切りをした水浴場のところの外壁の下の溝から排水される。中庭の壁の部分には、鶏のために円錐形の巣箱がつくられている。

グルンジの複合住居

グルンジ族もオートボルタに住むが、アオナ族とは対照的に、巨大で統合された拡大家族用の複合住居に暮らしている。彼等も一夫多妻制であり、数人の兄弟が家族と共に同居しているので、直径60mを超える複合住居がつくられる場合もある。例えば、16人の妻と35人の子供をもつ数人の兄弟が住む複合住居では、16の家族の住居が円周部にあり、中央に大きな中庭があり、中庭には家長(長兄=権力者)の住居、倉庫、穀物倉や家畜小屋がある。

複合住居には窓がないので、外から見るとまるで要塞のようである。主な入口は大きなバオバブの木の近くにあり、二つの副入口同様、夜にはかんぬきがかかる。

個別の住居は互いに壁を共有し、不規則な平面をもつ。壁は日干しレンガ、屋根は平らで控え壁のような隅柱と独立柱に支えられる。

居間の一角には小さな祭壇があり、土で作られた広い棚が背後と両側の壁に沿って設けられている。棚は生活用品を置くだけでなく、ベンチにもなる。円形の台所は主に雨期に使われる。台所、寝室とも窓はなく、生活の大半は屋外で行われる。各住居の前にある仕切られた庭と屋上テラスは重要な生活空間である。前庭の一角ではビールがつくられ、他のオーナーでは洗濯が行われる。屋上は暑い夜の寝台、生産物の干場、鶏の飼育場等になる。

家長が住む主要建物をはじめ、幾つかの複合住居が長方形であることは興味深い。この地域では長方形の建物は異質であり、伝統的な様式から離脱しようとしての表現だったと信じてよい。

ドゴンの群住居

マリのドゴン族も群住居に住んでいる。しかし隣接するオートボルタのものとは違い、小屋のプランはほぼ長方形か正方形である。ドゴン族はやせた耕地を集約的に耕す農耕民である。各人はある土地を耕す権利を持つが、決して所有するわけではない。しかし、子孫が土地を耕すと思われる限りは、その土地の耕作を拒まれることはない。
ドゴン族は、バンディアガラの崖の近くのコンパクトな村落に住んでいる。村落には二つの基本タイプがある。「台地」型は耕地の間に露出した高いテーブルのような岩の上に位置し、「崖」型はバンディアガラの崖に沿った岩のゴロゴロした急斜面に位置している。群住居は互いに隣接してひとまとまりに建てられ、コンパクトな村落を形成している。

小屋は、石と木の幹で出来た基礎の上に少量のわらを混ぜた日干しレンガの壁がつくられ、その上に泥が塗られる。小屋と小屋を石の壁がつなぎ、中庭を取り囲む。

中庭は家族の主要な生活空間である。乾季には台所や仕事場となり、家畜も飼育される。

主屋は、前室、家族室、倉庫、雨期に使われる台所と、複数の部屋を持つ。

台所は原始的な円形プランだが、屋根は円錐形ではなく、他の部屋同様の平屋根。
前室や台所からは、刻み目をつけた木の幹で作ったはしごが屋根へかかっており、暑く乾燥した季節には平屋根で寝る。
平屋根を支える梁と垂木は壁よりも外へ突き出ており、壁の修繕の際の足場となる。
各家族は数棟の穀物倉(乾季の間の食糧用、次のシーズンにまく種用、不作に備えた備蓄用)を持つ。備蓄用のものは、泥で封印された木のドアを持ち、その中の穀物には、虫除けに灰が振り掛けられる。穀物倉の平屋根の上には、よく円錐形のわら屋根が置かれる。このわら屋根は地上で帽子のような形に組立てられ、四角い塔のような倉の上に据えられる。円錐形のわら屋根と倉の四角い形とはぴったりしないので、軒先は常に不揃いである。
ドゴン族の住居は、円形プランから方形プランへ移行する発展過程の進んだ段階の良い例である。さらにそれは、一室型の建物と複数室型の建物が混合利用されている状況をも示している。

メサキンの住居が散在して建てられていたのに対して、ドゴンの群住居は一所にかたまって建っている
台地型の村は崖型の村よりも小さい。

ドゴン族の居住地は、有機的形状の不規則で狭い通路のネットワークをもっている。大きな村は地区に分けられ、各地区ごとに宗教的なセンターを持つ。村の中心は公共の広場と、トグナと呼ばれる集会所である。トグナは村人が集まり、村の長老によって統轄される会議場である。ドゴン族の村には互いに親族関係にない多数の人々が住んでおり、V.エイクは定住社会の初期的なものだと述べている。→ドゴン族の住居に関する追加資料

マヤの楕円形住居とメキシコのハカール

メキシコのユカタン半島にあるマヤの楕円住居も、半恒久的住居の典型例である。マヤ族はほぼ自給自足の農耕民であり、大工や商人等の専門職はすべて農業より劣ったものとされている。ある家族の耕地がやせてくると、村を離れて新しい土地で畑を切り開く。

部落は共同井戸と礼拝場のある広場の周りに形成される。住居は一室で、とうもろこしの茎か編み枝に泥を塗った壁に草葺きの屋根が載っている。入口に戸はついていないが、隣近所はプライバシーを尊重している。家具はハンモックと小さな木のベンチのみ。料理は部屋の隅の石の炉の上でつくられる。
メキシコ南部で見られるハカールは、マヤの楕円形住居に似ている。ハカールは長方形で、とうもろこしの茎をつるでより合わせて造られている。切妻の草葺き屋根も同様。窓がないが、垂直な茎の間に隙間があるので、涼しい風が入る。床は土で、入口は一つである。
ハカールは、普通、とうもろこしのフェンスで囲まれた敷地に数棟建っている。一番大きい小屋は両親と幼児の寝室、大きくなった子供達の寝室として、第ニ、第三のハカールが建てられる。台所の建物は寝室の建物に似ているが、中庭に面した方には壁がない。屋敷の中央近くには円形の穀物倉が建っている。ネズミやリスを除けるために床が高く、穀物を湿気から守るために壁の両側に粘土が塗られており、屋根は円錐形の草葺きである。

プエブロ

アメリカのアリゾナやニューメキシコなどの半砂漠の高原に生活するホビ族、ズニ族、アコマ族などのプエブロ・インディアンの住居であるプエブロは、たいへん美しい集合的な半恒久的住居である。プエブロは段状に多くの住居ユニットが配置された多層建築物であり、これらの建物は、広場を囲む形に建てられるのが普通である。

定住する平和な民族であるプエブロ・インディアンが耕作するのは、降水量が限られ、しかも霜によって生育期間が短縮される土地である。とうもろこしや豆、かぼちゃ、ひょうたん、たばこや綿などの収穫物を得るためには、より雨の多い高い高原や台地などから流れてくる水を上手く利用しなければならない。同時に、間隔をあけて深く植えるのに適し、干ばつに強くてすぐに育つ品種を用いねばならない。肥沃な土壌が風や新しい沖積土の堆積によって継続的に蓄えられているため、どの季節でも栽培することができる。農作業は男が行い、女達の手を借りるのは種まきと収穫だけである。

プエブロ・インディアンの自然と人間社会に対する見方は、平衡と調和や、男女の仕事の相互補完といったもので決められている。彼等の共同主義的な社会では、例えば「自分の部屋」という概念は知られていないし、それを示す言葉もない。社会は母系を中心とする氏族によって構成され、氏族は、泉や庭園や農場を所有している。

プエブロはたくさんの部屋から構成され、ときには部屋数が数百に達する。それらは段状にぎっしりと詰まって建てられ、通常3〜5階建ての集住体を成す。平屋根でテラスになった広場側の上の階は、それぞれ一階下の部分からセットバックしている。しかし、一番後の部分は多層の垂直壁で終わっている。広場側はひな段状で、反対側は砦の壁に似た高い壁になっているのである。プエブロの建築構造は、増減する居住者を収容する必要上、付加的累積的なものとなっている。付加的なユニットを建築する一方、荒れ果てた部分を壊して行く結果、プエブロの大きさや形は常に変化しているのである。
プエブロの厚い壁は、現在では日干しレンガか石がアドービモルタルで固められているが、かつては泥をつき固め形づくられていた。壁は内外面とも粘土で塗られ、内装は綺麗な漆喰で塗られるか、色鮮やかな飾りで仕上げられる。直径30cm程度の皮を剥いだヒマラヤ杉の梁が壁を横切って架けられ、細い棒が狭い間隔で横方向に並べられる。その上にヒマラヤ杉の皮やシダや草が並べられ、7.5〜10cmのアドービの屋根が支えられる。ヒマラヤ杉の梁は雨の少ない地域では得難い貴重な材料なので、繰り返して使用され、部屋の大きさに合わせて切断されることはない。梁の余分な長さは外壁の表面から突出し、独特の眺めをつくり出す。
伝統的に外壁にはドアがなく、小さな窓がニ、三あるだけである。部屋へは屋根の開口部から粗末なはしごで出入りする。しかしながら、今日では横の入口と大きなガラス窓が広く見られる。にもかかわらず、昔同様、1階とその後ろに連続する屋根のテラスへ行くには、はしごが用いられている。これらのはしごは、もう一つのプエブロの視覚的特徴となっている。
それぞれの住居単位は、幅1.8〜2.4m、奥行2.4〜3.6mの幾つかの部屋で構成される。これらは奥行方向に2ないし3列に配置され、互いに小さなドアでつながっている。一番奥の部屋は貯蔵室である。普通、暖炉が主室の隅に作られ、その上の覆いが煙を天井まで導いている。広々とした屋根テラスは、座ったり、眠ったり、もみがらを除いたり、農作物を乾燥させるのに使われる。そしてさらに重要な使い方は、すぐ下の広場で開催される公的な宗教儀式やダンスの演技を見る見物席となることである。
宗教はプエブロ・インディアンの生活に深く浸透しており、男達は、雨乞いと豊作を願う儀式のために生活の半分以上の時間を費やしている。宗教儀式の秘密の部分は、キバと呼ばれる神聖な部屋で行われる。キバはプエブロの広場のところに設けられていて、伝統的なものは大きな円形の地下室で、初期のプエブロの竪穴住居に似ている。キバは会議室、集会室や仕事場としても使われるが、入れるのは儀式を受けた男に限られる。キバに入るには屋根の開口部のはしごを用いる。内部は方位が重視されており、部屋の南側には、観察者のための一段高い台が注意深く東の方向を向いておかれ、北側には火を燃やす穴とシパプと呼ばれる出現の場所がある。詩人的なプエブロ・インディアンにとって、このキバは全宇宙を表現している。屋根と壁は大空を表し、床は大地を示す。壁に沿って儀式を受けた者たちのための席がある。そしてこれらの上には、彼等の尊敬する神が儀式を見守るための想像上の「雲の椅子」がある。
プエブロはしばしば耕作には適していない高くて険しい斜面上の台地に建てられる。こうした高い場所を居住地に使うことは、農地の無駄遣いを避けるばかりでなく、防衛上も利点があった。

20世紀以降、外部からの影響が増大した結果、プエブロ・インディアンの生活方法は重要な変化を経験した。このため、現代では住居が散在しているプエブロも出現している。19世紀のスパウロビ・プエブロのようにプエブロがぎっしり詰まっていたものと比べると対照的である。かつてのプエブロは、はるかに規模が大きい集合形態の建築であり、アド−ビの色も相まって環境にうまく溶け込み、まるで自然にある台地の一部であるかのような佇まいを見せていた。


先史および歴史時代にみる半恒久的な住居

およそB.C.7000〜6000年の新石器時代の円形住居の遺跡が、キプロス、ヨルダン、イスラエルなどで発見されている。キプロスのキロキティアの石の住居は直径が3.0〜8.7mであり、一方、カ−メル山のワディ・ファラーのは2.0〜5.6mである。ヨルダンのベイダ村では、長方形の住居ができる500年くらい前に造られた円形の群住居が発掘されている。

アナトリア高原のカタル・ヒュユクで発掘された神殿のある集合住宅は、プエブロに似ている。カタル・ヒュユクの農民は、日干しレンガで集合住宅を建設したが、住居への出入りは南側の壁にかけられた木製のはしごを使って屋根から行われた。屋根の入口は煙抜きの機能も果たした。様々なテラスをはしごがつないでおり、村民の生活のかなりの部分がそこで行われたと思われる。住居の主室は少なくとも2層で構成され、木製の柱で造られた上層が主な居住空間で、下層は死者の埋葬に用いられた。
鉄器時代には、ヨ−クシャ−、ウィルトシャ−、サセックス地方はもちろん、イギリスの高地においては円形の半恒久的住居は一般的であった。鉄器時代の典型的な農家が、リトル・ウッドバリーで発掘されている。東に入口を持つ円形プランで、同心円上の2列の柱と中央の4本の柱が屋根を支えていた。柵で囲まれた敷地内には、納屋や穀物倉などの付属建物も造られていた。この農家は現代のルイア族の住居に非常によく似ている。

北および西スコットランドの高地や島々の広い地域では、より厳しい地形にうまく適応した小さい円形の住居が発見されている。円形の石の壁の内側にある放射状の控え壁(グルンジ族の複合住居に似る)のような木製の小屋組を支えたと思われる柱にちなみ、これには「車輪住居」という名前がつけられている。

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