ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 1先都市時代の住居」、彰国社、1985年
しばらく住まいの住居(Episodical or Irregular Temporary Dwellings)
しばらく住まいの住居も、バンド型の社会組織で生活し、採集と狩猟で食物を確保する人々の宿るシェルターである。しかし彼らの狩猟技術は向上し、より恵まれた環境にあり、主に狩りをし、それを補うために採集をする。彼らのシェルターはやはり短時間で建てられるが、普通数週間にわたって使われる。進歩した狩猟採集民は、ほとんどの場合自然環境とバランスをとって生活している。彼らは自然環境を直接コントロールしているわけではないが、原始的狩猟民よりも大きく影響を及ぼしている。これは多くの場合、ある特定の動物を補食し、限定された植物を採集しているからである。時には自分達の所属している社会の生態バランスを変え、動植物の世界を支配することもある。

これらの集団の社会構造は、先に見た低レベルの狩猟採集民の社会的構造とさして違いはない。両方とも集団が小さく、閉鎖的なため、本人の意志にかかわりなしに複雑な人間関係が結ばれることになる。好みの人間との交際を選択することはほとんどなく、お互いは多くの関係をとることが可能である。例えば、父親と息子の関係は、同時に教師と生徒、主人と従者、医者と患者、親父と信者などの関係でもある。

進んだ狩猟民か原始的な狩猟民かは、社会の構造よりもむしろ文化や生活様式で区別される。進んだ狩猟民は、衣服や道具、武器といった形で個人的所有物をより多く持っている。また、そりやそりを曳く家畜も飼っている。様々な材料の基本的特性を知っており、それらを効果的に組み合わせて高度な器物を作る技術を持っている。彼らのシェルターや衣服、乗物は、巧みさと創造性を感じさせる。A.リチャードやP.ワトソンが述べているように、複雑な道具を上手に創りだせる者は、彫刻や絵画などの複雑な芸術を理解し実行することができる。実際、エスキモーのような熟達した狩猟民は、絵画や彫刻で優れた腕前を持っている。

こうした差異は大変に重要で、住居形式の著しい変化につながる。不利な気候条件に適応する機能はより高度になり、進んだ技術によって補完される。そして大きさも、数日限りの住居と比べて著しく大きくなっている。就寝用の場所と炊事用の場所とが区別され、焚火や炉は決まった場所で行なわれる。シェルターの内部で就寝し、かつ屋内で火をおこすことは、共に進んだ狩猟民の特徴である。また、住居に使用された材料の幾つかは持ち運ばれ、新しい野営地で再び使用される。最後に、しばらく住まいの住居を数日限りの住居と区別している明解な特徴は、その形の豊かさである。

しばらく住まいの住居のプランが円形で、ドーム型か円錐形の屋根がかけられている点は、数日限りの住居と同じである。ドーム型のシェルターは、木の骨組で支えられているか、あるいは雪のブロックのアーチ形ドームである。

しばらく住まいの住居は、極地や極地付近の地域あるいは大平原地域に見られる。これらの地域の特徴は気温の変化が著しい点で、冬は極端に寒くて激しい風を伴い、夏の昼間は穏やかで暖かい。このような気象条件のため、しばらく住まいの住居は、常に表面積が最小で構造的に最も安定するように建てられる。建物の熱容量が小さいため、炉を燃やすと室内はすぐ暖まるのである。


エスキモー

カナダ北部の樹木のないツンドラに住む。食物は動物(主にアザラシ)性のものが中心。アザラシの肉は冬の間のほとんど唯一の主食であり、その皮は雪小屋の内張りや夏用テントの覆い、衣類の材料などになる。脂肪は料理用はもちろん、燃料にもなる。腸や肉の切れ端は犬の餌となり、骨は道具として利用される。彼らは二つ、場合によってはそれ以上の異なる居留地を持つが、それは主に季節に応じて活動するためである。

最も長くとどまるのは冬の居留地の雪小屋で、囲まれた入り江や高台の風下側に位置する。堅すぎる氷状でもなく、柔らかすぎて粉状でもない雪を、長さ90cm、幅50cm、厚さ15〜25cmの直方体のブロックに切り出し、ドーム形になるようわずかに傾斜を付けながら、らせん形に積んでいく。ドームが最頂部を残してほぼ完成すると、小屋の底辺近くに出口を切り、外から最後のブロック(キーブロック)をはめ込む。採光のため、板状の氷またはアザラシの腸の半透明の膜でつくられた窓が入口の上に設けられる。窓の上方、ドームの頂上近くには換気用の小孔もつくられる。

雪小屋には幾つかの付属施設も造られる。まず主屋の雪小屋とドーム形の控えの間の間には通路となる低いヴォールトのトンネルが造られる。トンネルは低いので、たいてい手とひざを付いて這って通り抜ける。また床面は冷たいすきま風をできるだけ抑えるために、主屋より30cmほど低く造られる。普通の入口は防風膜で守られており、夜になると昼間は通路に置かれていた大きな雪のブロックが入口の前に置かれる。主屋の後ろに造られる半円形のヴォールトは食肉の長期貯蔵庫である。入口に向って左側には、日常の肉や脂肪の置場として使われる、少し小さいヴォールトの倉庫が設けられ、場合によっては入口の右側やトンネル沿いにも付け足される。控えの的入口通路の接合点には、衣類やそりなどの道具の倉庫用ヴォールトが設けられる。

さて建設工事が終わると、室内で鯨油ランプを灯し、人間は戸外に出て、すべての開口部を閉ざす。室内が暖まり内壁表面が溶けはじめる。汗をかいた壁面の余分な水は床に落ちることなく壁を伝わりゆっくりと下降し、下の方のあまり湿っていない壁面に吸収される。内壁全体に水分がゆきわたるころを見計らって、すばやく出入口と換気口を開けると、暖気が上から逃げるにつれて冷気が室内に流れ込む。内壁面は急激に冷やされ、壁は凍って固まり一体化する。同じ原理から、イグルーは長く住むほど堅固になる。強固になったイグルーは、行き来する北極グマの体重にも楽々と耐えられる。雪小屋の回りや上に吹き積もる雪は、戸外の氷点下の気温から雪小屋を保護する。また毛皮の裏打ちによって内部の壁や天井の保温性が高められる。

部屋の後ろ半分にはスリーピングプラットフォームという台が造られている。この大きな台は雪で造られ、コケや柳の小枝で覆われ、カリブーの毛皮がかけられている。また入口の両側も小さな台になっていて、ここには台所用品や浅い受け皿状の石のランプが置かれる。

イグルーは一家族のために作られるのが原則だが、時には数家族に共同の雪小屋も見られる。それは幾つかの雪小屋が互いに短いヴォールトのトンネルで結ばれたものである。ドームの大部分は住居だが、貯蔵庫や住民が集まる集会所もある。

極地の冬に対してこれ以上の家を探すことは難しい。半球状のドームは最も少ない表面積で済み、冷たい冬の風に対して最大の抵抗を示す。ドームは少ない材料で大きな体積を包み、その内部は熱と明りを出す一つのオイルランプで効果的に暖められる。小屋の内部は上の方ほど狭くなっているため、暖かい空気は室内に広がり、居住者を心地よくする。

太陽が建物を溶かすほど高くなると雪小屋は捨てられる。住人たちには、冬の居住地を離れ、春と夏の狩猟地へ移る準備はできている。そしてそこでは移動生活に適したアザラシのテントに住む。放棄された雪小屋は溶けて何もその跡を残さない。

テントはトゥーピックと呼ばれ、普通多くの木片を器用に結び合わせて造った柱で骨組が構成される。この骨組の上にアザラシの皮がしっかりと張られ、周りは重い石で押えられる。内部は雪小屋に似ている。


トゥングースの住居

広大な東シベリア地域に居住する北部トゥングース族は、トナカイの放牧と狩猟を行ない、1人あたり259KFという稀薄な人口密度を保っている。小さな核家族を単位に行動しているが、夫の身内で年長者がいると家族数は増える。

移動の必要から、容易に運搬できるテントに居住する。多数の棒を互いに傾けてもたれ合わせて、円錐形の骨組をつくる。骨組を覆うのは冬は動物の皮であり、夏はカバの木の皮である。煙突を除いて、シェルターはしっかりと閉ざされる。冬には厳しい寒さを防ぎ、夏には害虫を寄せつけないため、絶え間なく火を焚く。従って、室内はいつも煙っぽい。

テント内の利用には決まりがある。入口から右側は主人が使い、妻が隣、左側は長男をはじめ家族員たちが占める。入口の反対側は聖者あるいは地位の高い男性の来客のための場所である。

男性の仕事は狩猟とワナ仕掛け、動物への荷積み、屠殺と皮はぎ、まき割りなど、女性は子供の世話、料理、トナカイの乳搾り、動物の皮で衣類やテントを作るなど、とはっきりした分業がある。

平原インディアンの住居

しばらく住まいの住居のうち最も有名なものは、北米の平原インディアンのテペーというテントの家である。彼らの部族は大陸の平原をさまよう膨大な数のバッファローの群れの移動を追っていた。

テペーの原形は、基本骨組が3本の棒でつくられているものと4本のものと2種類ある。それらの柱の先端をひとまとめに縛り、それらを立たせ、この三脚か四脚に20本以内までの添え棒を立て掛け、特別あつらえのバッファロー皮をかぶせ、その下端を杭や石で押える。炉から出る煙を逃がすために柱が交差したところに穴が設けてある。テペーはすべて、ほんの少し傾いているので、煙穴は中心から出入口の方へずれているので雨の時には穴を閉めやすい。煙穴には耳と呼ばれる二つのフラップがそれぞれ別の柱にくくりつけてあり、風向きに従って調整し、必要なときは雨風を防げるようになっている。炉は煙穴の真下につくられ、またベッドは朝日の方向に向いている出入口のあたりを除いて、室内の端に丸く並べられている。

テペーの柱は男達によって慎重に用意される。十分に長く、まっすぐな材料が選ばれ、樹皮と枝は乾燥前に剥ぎ取られた。また、柱はインディアンの美的感覚に従って、テペーの覆いよりも必要以上にかなり長いものであった。柱は自分達の身の回り品を運ぶトラボーという運搬用具として利用される。
テペーの被覆のためにバッファロー皮をなめし、裁断し、縫い合わせることは、女性の仕事であった。しばしば丹念な装飾画が被覆を見事に引き立てた。被覆を縫うことに関連して、多くのしきたりがあった。例えば、ブラックフット族のテペーは、偶数枚の雌バッファローの皮だけで作らねばならなかった。さらには、妬み深い女や喧嘩早い女が被覆を縫うと、テペーは風がどう吹こうが煙で必ずくすぶるであろう、と信じられていた。そのため、気性の良い女子が裁縫の仕事に選ばれた。
テペーをを組立て解体するのは女達の仕事である。テペーを組むには1時間もかからなかったし、解体はそれよりも早くできた。
参考図

熱帯雨林の共同住居

熱帯森林地帯に住む焼畑農耕民によって造られる大きな共同住居は、かなり複雑で常識では考えられないものである。
緑に恵まれた
熱帯の森林は、食物を追い求めて頻繁に移住せずとも生活可能であり、そうした生活条件は、より大きな社会共同体(=部族)の形成を促し、同時に初歩的で集団的な農耕技術を発達させる。通常これらの部族は自給自足の共同体を形成し、共同の住居に住む。狩猟、漁労、食料採集を行なうと同時に、彼らは焼畑農業を営むが、これは熱帯雨林地帯を移動して農業を行なうことを意味しており、最も素朴で、最古で、そして生産能率の低い耕地の利用法である。斧、なた、掘り起こし棒のような道具が使用されるに過ぎず、その上、牽引用の家畜もないため人力のみで耕作が行なわれる。

概して、熱帯は植物が育つために好都合な条件を提供してくれる。湿潤な熱帯森林における植物の繁茂と多様さは無比のものであり、それに加えて微生物や動物の生育も他に類がない。頻繁に降る雨は、一年中の成長期間を保証してくれるが、また一方で雨は、土壌から無機物を洗い流して土中の栄養分を奪う。こうして、これらの生物の利用は経済的に限られることとなる。なぜなら、根の浅い根菜類は、木々とは異なり、無機物が洗い流されていない土壌の下層部分にまで根を張れないからである。このような条件のもとで、農耕者は、常に栄養分の低下した土地から新しい土地へと移らねばならない。

焼畑農耕の手順
まず、森林の一区域が現生する草木を焼き払って開拓される。次いで、作物を植える。肥料は用いず、草木の灰が無機栄養物となる。その区域は、土壌が生産力を失うまでの1〜2年間耕作される。やがて放棄され、新しい区域が開拓される。狩猟の獲物が多いように、新しい区域は少し離れた場所に選ばれる。焼畑農耕民の耕地は、ほとんどが1エーカー(0.4ha)以内である。この種の農業で人間と自然との間の平衡を維持するためには、人口密度は1KF当たり3.9人を下回るのが普通であろう。

焼畑農耕民の個人間の関係は、熟練した狩猟民のそれに似ているが、居住地がより安定しているので、個人の所有物の数や種類が変化し、同時に居住の形式も変わっている。集団経済を維持するため、彼らの住居は、円形、ドーナツ状、卵形、長方形などをした大きな単一の共同住居である。共同生活の居住者数が増すと、ついにその原始的な円形建物ではやって行けなくなる。構造上の理由から、円形の建物の大きさが制限されているからである。平面をドーナツ状や卵形にすれば、床面をわずかに増すことができ、最終的には長方形の建物となる。

はげしい日差しを受ける熱帯雨林では、日中は極度に暑く、夜は年中暖かい、熱を伝えにくい壁や、最大限の日陰と良好な風通しを供給する屋根を備えた建物は、この環境に対する適切なデザインであり、南アフリカの熱帯雨林の住居にこのような住居の発達した形を見ることができる。

ワイーワイの共同住居

ガイアナのワイーワイ族は、典型的な熱帯森林のアメリカ・インディアンである。彼らは焼畑、狩猟、漁労、食物採集を行ない、小さなグループごとに独立して大きな円形の共同住居に住んでいる。

ワイーワイ族に特有な共同住居は、垂直の柱で造られた円形の壁を持ち、巨大な円錐形の草葺き屋根を載せた単一の建物である。内部は、部屋に仕切られているのではなく、それぞれの家族が屋根柱の間に指定された場所を占め、それぞれの区画に、調理と採暖のための炉がある。ハンモックが小屋の柱と柱の間に掛けられていて、夫の寝床の下には妻の寝床が吊るされている。煙突がないので、煙はわら屋根の隙間を抜ける。

ヤノマメョの共同住居

ヤノマメョ・インディアンは南ベネズエラに位置するオリノコ川の流域に住んでいるが、やはり焼畑を行い、円形の共同住居に住む。ヤノマメョ族は頂点に煙を出す穴のついたシャボノという円形の大きな干し草の山のような共同住居を建てる。

集団の人数が増えて耕地の地力を消耗すると、部族は古い建物を棄て、新しいより大きな円形の住居を建てる。手に入る木材の長さには限界があるので、結果としてできる建物はドーナツのような形になり、本来、煙を出す穴だったものは中庭になってしまう。この拡張の様式は、中庭を持つ住居の起源を説明している進化論的な過程の一つの興味ある例を示すものである(中庭付き住居のもう一つの起源は建て増しによるものである)

各家族が自分達の占める部分をつくる。各戸ごとに4本の主柱を掘っ立てる。背面の柱は1.5m程度、前面が3m程度である。シャボノは公共広場、つまり大きな中庭を取り囲んで、内に開いた住居の連続したものに似ている。シャボノの周りには約3mの長さの丸太で柵がつくられ、その間が狭い通路となる。新しいシャボノはたいへんに人を魅了するもので、さっぱりかつ整然としていて、摘み取られたばかりの葉の香がする。しかし、住居はほんの1〜2年間しか持たない。なぜなら、草葺きの屋根から雨が漏り始め、しばしばゴキブリやサソリ、クモや他の害虫に荒らされるからである。
エリクバークサのマロカ

アマゾン流域の北部に住むエリクバークサ・インディアンのマロカは、焼畑農耕民が住む楕円形の共同住居のよい事例である。建物を支える構造体、つまり梁でつながれた三組の大きな柱が建てられる。これらの間には、水平な梁に支えられた小さな柱が熱帯産のかずらのひもでしっかりと留められ、建物を安定させる。屋根や壁はインドヤシの葉で厚く葺かれている。

マロカの規模はそこに住む家族の人数によって変化するが、長さ30m、幅18m、高さ9mを超えるものも珍しくない。

本来、マロカは大きく暗い一部屋のシェルターであり、その中央部は公式の接客や踊りのために使用される。小さな火が幾つもきらめき、そのそばの垂木や柱には家族それぞれのハンモックが吊るされている。仕切りや窓はなく、ヤシの葉の厚い戸で堅く閉じられた入口は、小さな吸血ハエから住人を保護する。これらの害虫から逃れるため、半裸の住民は、もっぱら室内で生活し、狩りや魚釣り、水浴、木や水を取るためにのみ日光の中にあえて出るのである。彼らは夜明け前にとうもろこし、キャッサバおよび綿の畑で働く。

キュベオのマロカ

キュベオ・インディアンも、アマゾン流域の北部に住んでいる。キュベオのマロカは、I.ゴルドマンの観察によると、単なるシェルターではなく、活気に満ちた社会および宗教センターである。日常生活はもちろん、他のすべての社会的、宗教的儀式は大きなマロカ内で催され、死者の埋葬式もここで営まれる。
マロカを造ることは、技術的にも社会的にも大事業である。23m×17m×6.4mという大きさのため、細心の注意でもって頑丈に建てる必要がある。

ハンモックでくつろぎながら、キュベオは余暇のほとんどを戸内で過ごす。客が来たときは、主人が入口で挨拶し、入口近くの応接スペースへ招く。そこには、大きな共同建築の内部に向って、低く長い椅子が備え付けられている。すべての住民が、酋長の権力を認め、彼は共同住居の所有さとみなされている。酋長は住居の片側にある中心的なスペースを占有することが多いが、だからといってマロカの空間の割当てが、身分秩序にそのまま従っているわけでもない。

←南アメリカには多くの共同住居がある。

内部空間は機能によって分けられている。側壁に沿った部分は生活部分で、2本の柱間がそれぞれの家族の空間になっている。仕切られてはいないが、プライバシーは尊重しあっている。それぞれの柱間スペースの中央には炉があり、夜には家族ごとに火が燃やされる。夜間はそれぞれの柱からハンモックが幾つか吊るされるが、昼間はそのほとんどを片付ける。屋根から吊るされたカゴやひょうたんの碗や、屋根の下に造られた棚は貯蔵場所として役立つ。

マロカの中央廊下部分は踊りのために使用され、夕食はほとんどこの部分で一緒にとる。夕食は共同の台所で準備される。台所と女性の生活部分は、マロカの後側に位置する。正式の儀式を行う部分は埋葬する場所と同様に、住居の前側にある。


先史および有史期のしばらく住まいの住居

有史前の時代において、無数の熟練した狩猟民達は、ユーラシア、アフリカおよびアメリカ大陸を漂浪して回った。

北アメリカのインディアンを代表するオノンダガ等の農耕部族は、すべてアメリカ発見時大にはコミュニティ共同の木造の長家家屋(ロングハウス)に住んでいた。それらの住居には、38mの長さに達するものもあった。恵まれた環境に住んでいたので、その生活は豊かだった。

原始的農耕民、例えば、ドナウ族のような先史期の共同住居は、北アメリカ・インディアンの共同住居に類似していた。紀元前4千年から5千年頃北西ヨーロッパに住んでいたドナウ族は、この地方に初歩の農耕技術を伝えた。彼らの集落には、長さが20〜50mと長い木造草葺き屋根の長方形の家が数件造られた。それらの家には、それぞれ数家族が住み、おそらく家畜も囲っていたと思われる。

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