ノーバード・ショウナワー、三村浩史監訳
「世界のすまい6000年 1先都市時代の住居」、彰国社、1985年
むすび(Conclusion)
各地域ごとに固有な先都市時代の住居の検討から、建築形態の発展について多くのことがわかる。実際、建築の歴史の見方さえ変化したように思われる。というのは、これらの住居の検討から、「時間」が、建築の発展を判断する唯一の尺度ではなく、最も重要な基準でさえないことがわかるからである。確かに時間は一つの要因ではあるが、しかし他の多くの要因のなかの一つにすぎない。人文地理学的、社会経済学的な要因は、少なくともこれと同等の意味を持っている。時間は、一つの相対的な要因にすぎない。これまで扱ってきたのは、主として現存の住居であるが、それにもかかわらず、描かれてきた建築は、文化的な基準からいえば古代シュメールやインド、エジプト、ギリシアなどの都市建築に先立つものであると言える。

今日でも、年代的にはシュメール文化に先立つ何千年前の石器時代の文化を直に見ることが可能である。つい最近も、石器時代の小集団の社会がフィリピンのタサディで発見された。この社会は過去に文明とは全く接触を持っていなかった。文明が移入されてきた結果、現存する石器時代の文化があまり遠くない将来にすべて消えてしまうだろうということは確かであるが、ほとんどの建築史家が、石器時代を遠い過去の神話化された時代として扱うのは道理にあわないことだと言えよう。

現代の石器時代文化の研究から得た知識をもとに先史時代の石器時代文化を考察すると、人類の最初の住居は洞穴であったという説を受け入れるわけにはいかない。例えば、カラハリ砂漠には住処に適した洞穴が多くあるが、ブッシュマンは洞穴を住むという目的にはほとんど使用しない。タサディを除くと、人々が洞穴に生活している社会は現存していないようである。食物採集をする遊牧民は常に移動しており、定住的な洞穴生活という概念はこれと矛盾する。定住した生活は社会がさらに進歩した段階に属している。実際、現在も洞穴に住む人々がいるが、ほとんどの場合それらの人々は牧畜か農業を行っており、都市に生活しているケースさえあり(スペイン、アンダルシア地方のグアジシュなど)、原始的な狩猟や採集を行う社会とは数段階の隔たりをもっている。

もちろん、幾つかの洞穴から、それが先史時代に人間に使用されていたという証拠が見つかっているということも否定することはできない。先史時代の人間が、一時的な住処としてしばしば洞穴を使ったり、さらには食物を求めての季節的な移動に際して洞穴を繰り返し使用したりしたことは、ありそうなことである。

各地に固有な住居の研究から導かれるいま一つの興味ある結論は、住居の平面として円形が長方形よりも古いという説に関連している。円形や馬蹄形の平面は、住処の最も簡単な形態である。凹面形は子宮のように母性的でもあり、それは人々を招き、隠し、また保護する。さらには、くぼんだ円形平面は、直感的な形態である。これに対して、合理的、または知的に考案された正方形や長方形の平面は、鋭い対称をなしている。

円形の平面は、建造物に一層洗練された長方形の形態を採用している社会においても見られることがある。しかしながら、こうした円形平面の存在は、原始時代の住居形態が残存しているものだと考えることができる。例えば、プエブロ・インディアンにとって神聖な場である伝統的なキバや、ドゴンの住居の円形の台所などがそれである。

円形の平面は二つの面で発展を制約されている。まず第一に、構造的に考えて、拡大することを制限される。建物の面積が増加すると、比例して直径が長くなり、梁を架けることが至難の業となる。これとは対照的に、長方形は幅を広くするのには制限があるが、長さの点では制限されない。円形平面の第二の制約は、次々に拡張や増築をしていくことの困難さである。一方、長方形や正方形では、建築材料的に考えても、効果的な空間利用という点から考えても、拡張を行うことはより容易であり、経済的でもある。従って、住居の発展について以下のことが言えよう。すなわち、住居の形はまず円形で始まり、次いで楕円形、それから角を丸めた細長い長方形、そして最後に角張った長方形や正方形へという一連の過程を通って発展してきていると見ることができる。

明らかに、建築物の構造も次第に複雑なものへと進歩してきている。ミツバチの巣のような最も簡単な住処は、屋根と壁を兼ねた覆いのシェルターで、両者の区別はない。次の段階になると、壁と屋根とが分化する。また、最も簡単な住居では、入口は窓と煙突を兼ねている。徐々に様々な機能が分化してゆく。事実「窓」(window)の語源をたどってみると、風(wind)と目(eye)であり、それは煙出しの穴と明り取りを結合した屋根の開口部を意味していた。

三番目の興味ある結論は、建物の規模に関することである。それは、住居の規模が増大したからといって、必ずしも社会経済的な発展がまっとうされるわけではないということである。アマゾンに住むインディアンの住居であるマロカやボヒオは、より進んだ社会のほとんどの住居よりもずっと大きい。
この一見すると矛盾しているように見える発展は、また社会経済的構造によるものだと考えられる。生存するための社会的、経済的な単位の大きさを、耕作で自給するのに必要な人数の面から考えると、技術的な進歩の程度に反比例することがわかる。言い換えると、農耕方法が原始的であればあるほど、生存に必要な収穫物を確保するには、土地を耕す労働力がそれだけ多く必要となる。この段階では集合して共同に生活することが生存にとって本質的な生活様式であり、大きな共同住居はこのような生活様式への解答である。
農耕の方法が改良されるのに伴って、生存するための経済単位は、部族から複合家族あるいは拡大家族へ、さらには、初めは多くの子供、後には少しの子供からなる夫婦家族へと縮小していく。居住者の数の変化に伴い、自然に住居の規模も変化し、広い空間への要求が少なくなる。そして、農耕方法がさらに進歩した段階では、住居は生存のためよりも、快適さを得ることを考えて造られるようになる。ここに至って初めて豊かさの観点から住居の規模と複雑さが考えられるようになるのである。
人類は百万年以上前から生存していると考えられるが、そのうちの断然長い期間は採集や狩猟で生活をしてきた。人類が旧石器時代やその段階の経済生活を突破するには、何十万年もかかっている。植物の作物化や動物の家畜化によって新石器時代に入って以来、発展のスピードは徐々に速くなっている。しかし、紀元前4000年の段階でも、生存に必要とされる以上の農産物を生産できたのは、ニ、三の社会だけであった。これらの社会においては、全員が食糧生産に従事する必要がなく、耕作に携らない人々は、商品の製造や流通などの仕事に専門化することができた。こうした社会経済の発展段階に至り、初めて都市が発展するための基本的な必要条件が整ったのであり、余剰生産物を持つ農耕経済が、都市文明を生み出したわけである。こうして、新しい住宅形態の進化、つまり都市住宅の6000年の歴史が開始された。

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